セネガルのダカールを出て北上すると、次第に風景が荒涼としてくる。赤茶けた大地に風が強く吹き、砂が舞い上がり、昼間なのに空もまたどんよりと赤茶けている。
 アカシアの木とバオバブの木が林立し、時々ヤシの木も立っている。乾いた大地に、アフリカを代表する三種類の木が立っている。 
 いくつかの町を通過する。太陽が右から左へ動いてゆく。野宿を繰り返し、じりじりと駒を進める。いつしか木もまばらになり、目に見えて乾燥してきた。大地は平らで、いつものように地平線に道が吸い込まれていた。 

 ある日の夕方。
 四方に木がほとんどなく、点々とブッシュがあるだけの乾いた大地を漕いでいた。今晩はどこにテントを張ろうかと、そろそろ考え始めなければならない時間になっていた。 
 不意に警官の検問が現れた。今までもよくあったので別段驚きもせず、パスポートを提示し問題なく通過した。 
 しかし検問を通過してから走りながら、困ったなと思った。地平線がぐるりと見渡せる、何の起伏もない場所で、野宿するところを警官に見られたくないからだ。そしてすぐに、でもいいやと思い直した。どうせ一時間も走れば地平線に隠れるんだから。そう思ってしばらく走り、ふと何か、とても好ましいものがよぎった気がした。 

 ――どうせ一時間も走れば地平線に隠れるんだから

 よぎった言葉を確認し、反芻し、嬉しくなってきた。地平線に隠れるだって? 走りながら後ろを振り向くと、検問はどんどん遠ざかっていく。確かにそのとおりだ。地平線の向こう側まで行ってしまえば完璧に隠れることになる。こんなに真っ平らなところでも、地平線の向こう側まで行ってしまえば完璧だ。周りに何もなくても完璧に隠れたことになる。 

 アフリカは、いくつかの例外的な場所を除けば、基本的には平らな大陸だった。そして私は、来る日も来る日もそんな平らな大陸を漕いでいた。
 地平線は、まったく退屈だった。地平線に道が吸い込まれるような道は、変化が乏しく、あまりに退屈なため、途方に暮れながら自転車を漕いでいた。道が地平線上の一点に収束する地点を睨み、あそこまで瞬間移動できないものかと埒もないことを想像し、この自転車にロケットエンジンが搭載され、ほんの数秒でいいから突如時速三百キロまで加速されないかと夢想し、スピードメーターを睨みながらため息をついていた。頭の中は、記憶の切れ端と思考の断片と自我のかけらが混ざり、溶け合い、身体的な疲労も混ざり、煮込みに煮込んだシチューのように沸騰していた。
 そんなとき私はよく、なんと芸のないことを毎日やっているんだろうと思っていた。自転車を漕ぐということは、あまりにも単純で芸がなく、何か向上するという要素がない。もしこの自転車を漕いでいる時間をそっくりそのままジャグリングに費やしたら、さぞかしたくさんのボールを回せただろうに。
 しかし、何も芸がないわけではなかったのだ。 私は「どれぐらい漕げば地平線の向こう側へ行けるのか」を感じることができるようになっていたのだ。これはとても嬉しい発見だった。そしてこの感覚はかなり得難いものに思われた。毎日、単調な道を、愚直に漕ぎ続けなければ得られない感覚だ。 
 なにか努力が報われる思いがした。地平線を眺めながら漕いでいるうちに、いつの間にか「地平線までの距離」を想像できるようになっていた。さらにその距離から想像力を働かせ「ということは、地球の丸さはこれぐらいなんだな」とも想像できた。そして思ったことは、「地球って、けっこう丸いんだな」ということだった。

 私は検問を通過してから一時間ほど走り、後ろを振り返って、しっかり「地平線の向こう側」まで来ていることを確認した。それから道端の草陰に適当な場所を見つけて野宿した。ちょうど日が沈むところだった。
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