ナイロビで私は合計一ヶ月以上滞在していた。その間ケニア山にトレッキングに行ったり、出会った旅行者とサファリに行ったりした。ナイロビにもまた、ジンバブエのハラレのように長期旅行者が多くいる宿があり、そこで私は多くの旅行者に会い、別れながら、日一日とナイロビでの滞在期間を伸ばしていた。
 ナイロビから先は、北上を続け、エチオピア、スーダンを通りエジプトへ抜けるか、西アフリカへ行き、それからヨーロッパへ行くか、二つの選択肢があった。このまま北上を続け、エジプトから中東を通りアジアへ抜けるのと、西アフリカに行くのとでは、一年以上旅の期間が違ってくると思われた。西アフリカへ行くと、確実に二年では帰れなくなる。しかしもともと二年という期間は目安でしかなかったので、行きたい方を素直に選べばいいだけなのだと思い、西アフリカに行くことにした。これで日本に帰るのに、二年半か、あるいは三年近くかかってしまうことになると思った。

 ナイロビから飛行機でエチオピアへ飛び、エチオピア国内を一ヶ月間旅してから、西アフリカのコートジボアールへ飛んだ。アフリカの中央部は政情不安のため自転車で通過することはできず、飛行機に乗らざるを得なかった。
 そうしてたどり着いたコートジボワールの首都アビジャンは、近代的な大都市だった。街の中央に海が入江のように入り込んでいるラグーンがあり、街を大きく二分していた。一方は高層ビルが林立しており、プラトー地区と呼ばれていた。そしてもう一方は下町で商店や住宅街が密集しており、トレッシビル地区と呼ばれていた。ラグーンには大きな橋が二つ架かっており、大使館や銀行などはプラトー地区にあった。
 私が泊まったキャンプ場は町の中心から十七キロ離れた海岸沿いにあり、そこからプラトー地区へ行くには、まず乗合いタクシーに乗りトレッシビル地区ヘ行き、バスかタクシーに乗り換えて橋を渡らなくてはならなかった。トレッシビル地区からプラトー地区へは歩いても行ける距離だったが、アビジャンの治安は決して良くはなく、特に橋周辺は危ないと聞いていたので、私も橋を渡るときは乗り物を使っていた。 

 十二月二十一日
 郵便局で日本からの小包を受け取る。あとはガーナビザを取って出発するだけになった。

 十二月二十二日
 ガーナビザを申請する。本来なら二日後受け取りなのだが、手数料を払ったら翌日受け取りになった。午後、街を歩いていると、妙に騒然としている一画があった。人々が口にハンカチをあてて歩いている。男が数人高級車に詰め寄っており、中の人物は窓を閉じて無視している。場の空気が張りつめている。とにかく巻き込まれないほうがいいと判断し、すぐにその場を離れた。少し離れると人々はなにごともなく歩いていた。いつもならすぐに来るプラトー地区からトレッシビル地区行きのバスがいくら待っても来ないので、諦めてタクシーを探したが捕まえるのに時間がかかった。

 十二月二十三日
 ガーナビザを取得した。もうあとは出発するだけになったが、この日、迷った末にマリのビザを申請した。この先のガーナやブルキナファソでもマリのビザは取れるはずだが、大使館の位置が分からなかったり、トランジットビザしか発行してくれないという情報を他の旅行者から聞いていた。なので確実に取れるところで取っておこうと思ったのだ。マリ大使館へ行くと、今日中に申請すれば明日の午前十時には取得できると言う。それなら申請して、明日受け取り、午後から走り出せばいいと思い、パスポートをマリ大使館に預けた。
 昨日と同じく、プラトー地区からトレッシビル地区へ行くバスは来ない。バス停で待っていると数十人の集団が奇声をあげながら歩いており、不穏な空気が流れている。バスを諦めタクシーを探したが、いくら探しても満車ばかりで捕まらない。このままでは暗くなってしまうと思い、ラグーンに架かる橋を歩いて渡った。この橋は強盗多発地帯だったが、それしか方法が無い。私と同じように、バスやタクシーに乗ることを諦めた人たちが大勢橋を歩いていた。トレッシビル地区を歩いているとき、兵士が数人道路を封鎖している光景を見た。一体何なのかまったく分からなかった。そしてこの日の夜、アビジャンで独立以来初めてのクーデターが起こった。  

 十二月二十四日
 私は何も知らなかった。朝、マリ大使館に預けたパスポートを受け取るべく、乗合いタクシーに乗り込んだ。走り出してすぐに、何かおかしいなと思った。いつもより通りを走っている車が少ない。道の両側にやけにたくさんの人がいる。町の中心に近づくにつれて、いよいよおかしいと感じた。いつのまにか道の両側が群衆でびっしりと埋め尽くされている。道は片側四車線、計八車線の道路で、普段なら車で埋まっているのだが、今日はほとんど車がない。道の両側を埋め尽くしている群衆は、場所によっては大きく車道にはみ出し、見るからに興奮している。所々に兵士がいて銃声が聞こえる。これはおかしい。何かおかしいどころではなく、明らかに、絶対おかしい。このときになって初めて、何かが起こったのだと思った。
 中心に近づくにつれて、町は異様な興奮に包まれていった。走っている車はもはや私たちが乗っている乗合いタクシーと兵士が乗っている車だけになっている。いたるところに兵士が立っていて、空へ向けて発砲している。乗合いタクシーの運転手も戸惑っている。
 ある街角で、道端の兵士が乗合いタクシーに停まるよう合図した。停まると人だかりに取り囲まれた。兵士が運転手に何か言っている。運転手は必死に何か答えている。私はまったく生きた心地がしなかった。黒人たちの乗客の中にあって、私はとりわけ目立つ。中に外国人がいると分かったらかなり危険なことになるのではないかと思った。私は車の中で小さく小さくなっていた。
 そうこうする内に群集の中の一人がホースを持ってきて、車のガソリンタンクに入れ、ガソリンを盗もうとしだした。興奮している群衆は兵士に銃を撃ってくれとねだり、目の前で空に向かって銃が撃たれた。激しい衝撃が伝わってきて、群衆は大喜びしている。私はもしこのまま乗合いタクシーが停められたままで、ここで外に出されたら、絶対に危険なことになると思い、とにかく走り出してくれとそれだけを願っていた。
 やっと乗合いタクシーは走り出し、街の中心へと向かった。道路がほとんど人で埋まっているところも、タクシーの運転手は突っ込んでいき、クラクションを鳴らしながら強引に切り抜けていく。興奮した群衆はタクシーの窓をバンバンと叩き、中をのぞき込みながら大声で何かを叫んでいる。そうしてトレッシビル地区の乗合いタクシー乗り場へ着いた。外へ出る。
 私はとにかく何が起こっているのか分からないので、近くにいた親切そうなおじさんに、何が起こっているのか尋ねた。しかし「軍が何かを起こした」というだけで要領を得ない。だが、どう考えてもここからプラトー地区へ行き、マリ大使館へ行っている場合ではない。
 近くを兵士が数人タクシーの窓から体をのり出して、続けざまに空へ向けて発砲しながら通り過ぎて行った。遠くから近くから銃声が絶えない。興奮した群衆は数十人ずつ集団となって叫びながら走っている。
 見るからに町は大混乱に陥っていた。無法地帯になっていた。そして外国人の私は目立つ。絶対に興奮した群集に取り囲まれて、身ぐるみはがされてしまう。何が起こっているのか確認するために公衆電話から日本大使館に電話するがつながらない。早く引き返そう。早くこの場から逃げなくては。

 乗合いタクシー乗り場へ戻る。乗合いタクシーだけは動いていた。しかし台数が少なく、キャンプ場を越えてずっと先のグランバッサムという町への直行しかなかった。悔しいがこんな場面で節約することはできない。いつもの倍払って乗った。乗合いタクシーはいつも通る大通りを通らず、兵士を避けて裏通りを行った。大きく迂回してからまた大通りに合流したところで交通事故があったらしく、車が横転していた。その横を通り過ぎるとき、突然すぐ近くで鼓膜をつんざくような連射音が聞こえた。反射的に乗客全員が一斉に身を伏せた。身を伏せながら私は一瞬、まるでアクション映画のようだと思ったが、これは映画ではなかった。

 無事キャンプ場にたどり着いた。キャンプ場はしっかりとした門があり、また町から離れているから、一応は安心だった。
 キャンプ場の主人に何が起こったのか、詳しく聞いた。彼がラジオで聞いた話によると、昨晩軍はクーデターを起こし、大統領を追放したらしい。大統領はフランス大使館へ逃げたらしい。でも大統領はそこからラジオで自分はまだ大統領だと主張しているらしい。でも軍は新政府を立て、クーデターは一応成功したらしい。すべて「らしい」でしかない。しかしラジオが言うことをまとめると、とにかくそうなるのだと言う。そして戒厳令が出ていて、外を出歩かないようにとラジオは言っているらしかった。
 昨日、マリのビザを申請しなければよかったとつくづく思った。こういう事態になって、パスポートが手元にないのはいかにも心細い。マリ大使館に私のパスポートはちゃんと保管されているだろうか。クーデターの混乱でどこかに紛失してないだろうか。

  十二月二十五日
  一日中キャンプ場のビーチで寝ていた。ときおり遠くで銃声が聞こえたりするが、キャンプ場内は平和だった。クリスマスだったが特別なことは何もしなかった。夕方キャンプ場のすぐ近くにある屋台飯を食べに行った。ご飯に辛いソースをかけたものを注文して食べた。いつもと何も変わらずおいしかった。

 十二月二十六日
 洗濯をした。キャンプ場の主人がラジオから得た情報によると、大統領はヘリでトーゴへ逃げたらしい。そして明日から町は正常になるらしい。「らしい」情報でしかないが、ともかく良かった。大統領が逃げなくて抵抗でもしたら、長期化して、内戦などにもなりかねないから。  

 十二月二十七日
 緊張しながらもパスポートを回収するべく乗合いタクシーに乗り町の中心へ向かう。町は荒れ放題に荒れていた。すべての電気屋のシャッターがこじ開けられ、ショーウィンドウのガラスが割られ、中は見事になにもなかった。通りには一面に電化製品が入っていたのであろうダンボールと発砲スチロールが散乱していた。店の主人が店の前で頭を抱えていた。爆発的な欲望がここで炸裂したことがありありと見て取れる。狂喜してテレビやラジオを奪っていった集団がまざまざと目に浮かぶ。混乱に乗じて理性を失い、日頃の不満が爆発し、なりふり構わず電化製品を奪っていったのだろう。ダンボールと発砲スチロールが散乱しているさまが、ぞっとするほど寒々しい。アビジャンの街が、何か怪物のような禍々しい生き物に襲われたようにすら感じられた。
 マリ大使館へ行くと、パスポートはちゃんとあった。受け取り、キャンプ場に戻り、すぐに出発した。

 アビジャンから三日間走りガーナに入国すると、そこは平和そのものだった。もう銃声は聞こえない。もう人々はみな穏やかな表情をしている。国境を越えただけで、実際には気候はまったく変わらないのに、確かに空気が変わったと感じられた。

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