マラウイ湖畔の町ンカタベイにたどり着いたとき、そこから対岸のタンザニアの町まで行く国際フェリーがあることを知った。どうしようか。ここからタンザニアのダルエスサラームまで、約千五百キロ、予定していた幹線道路を行くか、それとも対岸へ渡り、地図上では頼りない点線があるだけの、何の情報もない未舗装の道を行くか。
  しかし、決断はすでに下されていた。フェリーがあると知ったときに、私はもう「行こう」と決めていた。自転車で漕げるような状態の道なのだろうか? 食料は補給できるのだろうか? 本当にちゃんと道はダルエスサラームまで繋がっているのだろうか? そんなことを考えると急に体に力がみなぎってくるのを感じた。私はこのとき、より大胆になることを求めていた。日本を出てから約五ヶ月、私はそれなりに旅なれてきており、予定どおり舗装路を走ったのなら、ダルエスサラームにたどり着けることは十分に予想できた。しかしそれは退屈な選択だった。そんな退屈なことをしにわざわざ旅に出たのではないという、変化を求める強い気持ちがこのときの私にはあった。
 次の日の夜、私はフェリーに乗った。深夜、フェリーはタンザニアへ向けて出港した。こんな風に、よりわくわくする方へと、予定していた道を変更できたことが嬉しかった。この五ヶ月間で、そういうことができるぐらいには自由になれていたのだろう。一体明日からどんな道が始まるのか、次の国タンザニアはどういう国なのか。未知の領域にまた一歩踏み込むときに、私は「旅をしている」と思った。船は汽笛を鳴らしながらンカタベイを離れていった。そして次の日から二十日間、ダルエスサラームまでの長く厳しい道が始まった。

 タンザニアの湖畔の港町を出てすぐに、すさまじく荒れた未舗装路が始まった。次の町までの百六十キロが、バスでさえ十時間もかかるという。私はまるまる三日間かけて漕いだ。長い登り坂を一日中押して歩いた日もあった。
 最初の三日間で未舗装路を走るということがどういうことなのかを知った。一日中どんなに頑張っても六、七十キロしか進めない。常に集中して道を見ていないといけない。でもこの道を走ることはよかった。自分で決めた道を走ることはよかった。ダルエスサラームまでなんとしてでもたどり着いてやるとムキになれることはよかった。

 タンザニア南部を横切るこの道は、とにかく子供が多い道だった。この辺りはタンザニアの中でもとりわけ貧しい地域なのだと聞いた。一本の未舗装の道が森や草原を横切りながら、小さな村々をつなげていた。
 ある日、急な坂道で息を荒げて押していると、急にフッと軽くなったので振り返ると、五、六歳の男の子と女の子が自転車を後ろから押してくれていたことがあった。坂を登り切ったところで持っていた飴をお礼に一つづつあげた。女の子は両手で受け取って、その時少し膝を曲げた。そんなちょっとしたしぐさが疲れを和らげてくれた。
 小さな村をいくつも通過する。子供達は私を見るなりワッと逃げ出したり、母親にしがみ付いて泣き出したり、「ジャンボ(こんにちは)!」と駆け寄ってきたりと様々だ。そしていつも村に入る頃には何十人もの子供達を連れての到着となる。
 村の食堂で食べているとどんどん人が集まってくる。ひそひそ話し合い、何者だとジロジロ見てくる。数十人もの人達に見られながら食事をするのは実に落ち着かない。しかしそれも何日か経つと次第に慣れてしまった。集まってくる人達を見ながら、私は一体どんな風に彼らの目に映っているのだろうかと思った。荷物を満載した自転車でやって来た、肌の黄色い男。もし私がこの村に生まれていたら、きっと私もこの男をじろじろ見るだろう。

 ある村に着いたとき、その村一番の立派な家へ泊めてもらったことがあった。その家はレンガで作られていた。レンガからすべて自分達で作ったのだという。電気はない。水は五百メートルほど離れた川から汲んでくるそうだ。
 夕食にカバの肉のシチューが出された。数日前にとってきたのだという。味は牛肉をもっとプリプリさせた感じで大変おいしかった。翌日の朝、その一家の家畜を見せてもらった。ニワトリ、ヤギ、ヒツジ、何十頭、何十羽、小屋の扉を開けると次々と出てきた。そしてウサギもいた。子ウサギを、ほらかわいいだろう、と抱かせてくれた。ウサギもどうやら食用のようだった。
 ある日の夕方村に着いて、村人に村の端にテントを張らせてほしいと頼むと、そこは危険だから家の中に張りなさい言ってきた。この辺りはよくライオンが出るのだという。今年に入ってもう四人も殺されているらしい。つい二日前にもひとり殺されたのだという。ほんとうだろうか。でもそう言われればその辺からライオンが出て来そうな気がしてきてしまう。私は素直に民家の中にテントを張らせてもらった。
 ときおり砂道になることがあった。周りは森だというのに、道の所だけがサラサラな砂になっていた。自転車は砂に非常に弱い。だからそんな部分が現れたら、漕げるだけ漕いで、漕げなくなったら自転車を降りて押した。全力で、全体重をかけて、ひたすら押した。時速一、二kmで前進した。そんな時、私の頭の中はからっぽになっていた。そして私は世界で一番正しい事をしている気持ちになっていた。この世で一番大切なことは、タイヤを砂にとられないように、よく路面を見て漕ぐこと。あまりにも砂が深くてこげないような道なら、全力でせっせと押すことだ。
 アフリカの片田舎の森の中で、私は誰に見られることもなく、息を荒げ、汗を流し、全力で自転車を押していた。疲れ切ったら道ばたに転げるように横になって休んだ。こんなバカげたことはないと思いながら、頭をまるっきり空にして、道の状態に素直に従い、いつ現れるか分からない次の村へと漕いだり押したりすることには、なぜだか深い喜びがあった。

 そのようにして二十日間、極めてローカルな体験を繰り返した。村に宿が無ければ村の端にテントを張った。村にたどり着けない時は森の中にテントを張った。バナナとオレンジがよく道ばたで売られていたので毎日食べ続けた。元気な子供に励まされたり、うっとうしく思ったりした。毎日動けるだけ動いた。夜は疲れ切って倒れるように寝た。そんな毎日だった。
 最後の数日間はもう早くダルエスサラームにたどり着きたい一心だった。体の芯からぐったりと疲れてしまっていて、早くたどり着いて休みたいとばかり思っていた。

 とうとうダルエスサラームにたどり着いたときはやはり嬉しかった。レストランへ行き、思う存分おいしいものを食べた。しかし二十日間の疲労は思いのほか深く、私はなぜかいままで経験したことのない種類の疲れを感じていた。宿で六日間休んでいたのだがいくら休んでも体が重いままだった。ただ体が疲れたというよりももっと深いところで疲労しているようだった。それは、燃え尽きてしまったような疲れだった。そしてそれは、貧困を見続けてしまったという疲れでもあった。かなり節約した旅をしてはいたが、それでも私は現地の人から見れば考えられない額のお金を持って旅をしていた。そのことに対する後ろめたさ、どうしようもなさは、私の中に澱のようなわだかまりを溜めていった。お金を持っている外国人であるという理由で近づいてくる人にどう対応したらいいのか分からず、私は次第に消耗していった。そしてやがて人と接することが面倒になり、私は何もかもが面倒になっていった。
 ダルエスサラームでは微熱と軽い頭痛を感じながらずっと寝ていたが一向によくならないので、なにか病気にでもなったのかと思い、病院に行きみてもらったが特に問題ないと言われた。そのうち同じ休むのならビーチで休んだ方がいいのではないかと思い立ち、重い腰を無理矢理あげて、ダルエスサラーム沖にあるザンジバル島へ移動した。

 ザンジバル島の東海岸は、白い砂浜と、どこまでも遠浅な海が広がっていた。
 私はビーチに面したゲストハウスに部屋をとった。部屋をでたらすぐ目の前が海で、潮が引くと、遥か沖まで歩いて行けた。
 夕方、空が暗くなりしばらく経った頃、暗い海の向こうからからゆっくりと、赤く大きな満月が昇ってきた。やがて月は次第に赤から黄金色へと色を変え、光を強め、青白い光が海全体を照らしていった。
 遥か沖の方まで潮が引いていた。私は裸足になり、歩けるところまで歩いてみようと思い立ち、月の光の射す方へ、まっすぐ沖のほうへ歩きだした。白く細い粘土のような砂が足裏に心地いい。初めのうちはほとんど海水のないところをピチャピチャと歩いていた。やがてくるぶしぐらいまでになった。ひんやりとしていて気持ちいい。月光が海に反射して明るい。自分の足音とかすかな波音のほかは音がなく、辺りは静まり返っていた。歩くたびに波紋が広がってゆき、それが風でできた波に消えてゆく。まるで水の上を歩いているかのようだった。
 しばらく歩いてから振り返ると、泊っているゲストハウスの灯りがずいぶん小さく見えた。かなり沖へ来たようだ。それでも一向に海は深くならない。こんなに遠浅の海が信じられない。広く大きく水平な空間がどこまでも広がっていた。一体どこまで歩いていけるのだろう。このまま日本まで歩いていけるのではないか? なんだか本当にそんな気がしてきた。

 一週間、私はザンジバル島で過ごした。昼間は海を眺めたり、泳いだりし、夜は月の光を浴びながら散歩をした。あまりにも平和な日々だった。
 よくヤシの木の間に吊るされたハンモックに揺られながら眠った。そしてときおり目を開け、真上に実っている数個の大きなヤシの実を見上げた。そしてヤシの実が私へ向かって落ちてくる様子を想像していた。あの高さからあの中の一つが落ちてきて、ちょうど私のこめかみに直撃すれば一瞬で死ねるだろうなと思っていた。風が吹いたら目を閉じた。そうしたらすべてが変わるのかもしれなかった。
 しかしヤシの実は落ちなかった。一週間後にザンジバル島を離れた。平和な光景の中で、ひとときザラザラとした現実から離れ、羊水の中で守られるようにハンモックに揺られていた日々だった。
 それでもザンジバル島を離れたのは、今まで続けてきたことの惰性と、一つのところに長く居すぎることへの嫌悪からだった。私は心のどこかで常に「移動しなければ」と思っていた。同じ場所に長く滞在していると、徐々に内側から腐るように移動する気力を失うのではないかと怖れた。だから私はいやいや出発したのだった。
 そうやって再びダルエスサラームへ戻り北上を開始したのだが、全身にぬぐいきれない倦怠をひきずっていた。いつのまにか無気力な思いがはびこっていた。そんな思いを抱きながら自転車を漕ぐことは苦痛以外の何ものでもなかったが、自転車は漕がなければならなかった。それ以外に旅する方法はなかった。このようなとき、私はほんとうにばかばかしいことをしていると思った。なぜこんなことをしているのか。自転車を漕いで、疲れ果てるだけで、誰の役にも立たず、自分の役にさえ立っていない。ただ苦痛なだけで、得るものが何もない。どこまでも無意味で、無駄で、ばかばかしい。二三週間前は同じことをしながら、世界で一番正しいことをしていると思っていたのに、このころは世界で一番くだらないことをしていると思っていた。そしてそのような想いに占領され、私はこのころの一ヶ月間、日本を出てから欠かさず書き続けていた日記が書けなくなっていた。毎日寝る前にノートを取り出し、日付とその日の走行距離は書くのだが、それ以外は書こうとしても何ひとつ言葉にすることができなかった。
 
 ザンジバル島を出てタンザニアを北上し、キリマンジャロ山の麓の町に着く。そこである日本人の家庭にお世話になることになった。一泊し二泊するうちに、その家にいたすこし年下の女の子と話すようになった。
 数泊してからその家に自転車や荷物を預かってもらい、ガイドを雇ってキリマンジャロの登山にでかけた。そして五日目に無事五八九五メートルのアフリカ大陸の最高峰に立つことができた。
 下山してからもまたその家にお世話になった。その家には大きな本棚があり、私は毎日思う存分日本語の本を読んで過ごした。そして夕方になり彼女が学校から帰ってくると、毎晩のように夜遅くまで二人で話していた。そのような日々は、ザンジバル島のときと同じように離れ難い想いを抱かせ、私の心は日に日に彼女に傾いていった。しかし出発する日も近づいていた。私は出発する日が来るまで毎日、昼間は本を読み、夜は彼女とずっと話していた。あんなに長い時間、二人でいったい何を話していたのか、今となってはまったく思い出せない。ただ、話せば話すほど私の心は傾いていき、一方でその家にいつまでも居る訳にはいかず、引き裂かれるような思いを抱いていたのをよく憶えている。

 彼女と別れる二日前の朝に見た夢を忘れることができない。
 夢の中で私は目覚めた。目が覚めたときにまだ私は夢の中にいることに気づいた。このような夢を見るのは初めてだった。見回してみると現実と同じく、私は自分が寝ている客室のベッドの上にいた。私は夢の中でベッドから身を起こした。以前読んだ本に、このような現象のことが書かれていたことを思い出した。それは覚醒夢といい、覚醒夢の中では、思ったことが何でも実現できるのだという。私は飛ぼうと思い、両手を広げてみた。そうしたらいとも簡単に体が持ち上がった。そしてそのままゆっくりと上昇していった。
 私は彼女の家の屋根をすり抜けて、町の上空まで昇った。風も感じたし、町の北には現実と同じくキリマンジャロ山も見えた。両手の角度と手のひらの向きを変えると、思うままに旋回したり上昇したりできた。しばらく私は風を切りながら町の上空を飛ぶことを楽しんでいた。
 やがて知らぬ間にかなり高い所まで飛んでいってしまったようだ。そしてふと見上げると、強烈なまばゆい光があった。私は光のほうへ吸い込まれるように高く飛んでいった。光はどんどん大きくなり、私はどんどん小さくなり、やがて胎児のようにひざを抱いて丸くなり、圧倒的な光に包まれた。
 光に包まれた瞬間に、光が爆発するように弾け、今度は本当に目が覚めた。ベッドから身を起こしてもしばらく目眩が続いていた。そして私はいままで感じたことのない幸福感の中にいた。テーブルも、椅子も、部屋のドアも、目にする物すべてが少し光って見えた。

 この朝に体験したことが何なのか、未だに私は分からない。なにかそれは、途方もないものに触れてしまったような体験だった。私はその朝、なにかに畏怖するような気持ちになっていた。彼女と別れなくてはならないという引き裂かれた状況の中で、その裂け目を通り、無意識のかなり深い場所にあるものが出てきたようだった。夢の中で爆発した光は、私の脳細胞の多くが同時に発火した現象でもあるだろう。多くの脳細胞が同時に発火し、そして、いくつもの縛り目がほどかれたようだった。
 私は明日彼女と別れ、再び自転車を漕ぎ出すということを受け入れていた。どうしても受け入れられないと思っていたことを受け入れていた。結局それしか選択肢はないのだということを私は理解していた。

 次の日彼女と別れ、再び自転車に乗り次の町まで漕ぐ。宿を見つけ荷物を部屋に運び入れ、鍵を閉めてからベッドに横になる。もう二度と会えないのだと思ったら込み上げるものを抑え切れなくなった。しばらくはベッドに突っ伏して泣いていた。そして泣き止むと、また旅を続けるのだと思った。どれだけ倦怠と無気力をひきずっていたとしても、旅を続けることは自明なことだった。ある場所にどれだけ滞在しても、そこがどれほど居心地のよい場所でも、そして誰かにどれだけ心が傾いたとしても、再び出発することは自明なことだった。次の日、ケニアの首都ナイロビへと向かった。
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