自転車で旅をする日々が、私の日常になっていった。私は旅をする日常を受け入れていった。朝、自転車に荷物を取り付けて、安宿やキャンプ場を出発する。時おり地図を見ながら、黙々と自転車を漕ぐ。上り坂に息を荒げ、向かい風に腹を立て、下り坂に喜ぶ。そして夕方になると泊まる場所を探してあせる。どうにか泊まる場所を確保し、食事をお腹いっぱい食べて、日記を書いて、寝る。宿やマーケットでの値段交渉も慣れてきた。
 旅をする日々において、次に何が起こるのかはいつもいつも計り知れないことだった。繰り返しの日々というものはなかった。毎日、大なり小なり新しいことが起きた。そして私は、徐々に、旅の日常とは、常に何だって起こりうることなのだということを学び、そしてそのような状況になじんでいった。出発直後に感じていたあの生々しいまでのさみしさや緊張は後退し、私は旅を楽しめるようになっていった。

 ビクトリア滝からジンバブエに入国する。
 二週間ほど走り、ジンバブエの首都ハラレに到着した。私はハラレに到着することをずっと楽しみにしていた。なぜならそこには、日本人旅行者が多く滞在している安宿があったからだ。私はとにかく日本語を話したかった。三ヶ月近く、不自由な英語だけでどうにか旅をしてきて、私は日本語で話したくてたまらなくなっていた。この「日本語を話したい」という欲求が、のどの渇きと同じぐらい強い欲求であることを知ったのは、新しい経験だった。
 ハラレに到着し、日本人旅行者が多く滞在しているらしい宿にたどり着くと、ほんとうにそこには日本人旅行者が何人もいた。私は日本語が話せることが嬉しくて仕方なく、そこにいた日本人に次々と話しかけた。そこにいた人達はほとんどみな長期旅行をしていた。ある人は九ヶ月、ある人は一年、またある人は二年十ヶ月といった具合で、大抵はアジアや南米を旅行したあとにジンバブエまで来ていた。もうすぐ三ヶ月という私が一番短いようだった。
 異国の地にあって、そこだけは日本のようだった。日本語が通じて、日本の価値観や常識もまたそこにあった。私たちは、多かれ少なかれ、その日本の価値観や常識を窮屈に感じて旅立ったのではあるが、慣れ親しんだ場所が居心地悪い訳がない。日本語が話せることが嬉しくない訳がない。私たちは、毎日のように、中庭のテーブルで皆で食事を作って食べ、夜遅くまで話した。昼間は一緒にマーケットに行ったり、近くの観光地に行ったりした。
  
 そうやって、その宿で数日を過ごしているうちに、ある女の子の存在が気になり始めた。彼女もまた旅をしている日本人だった。しかし彼女は決して日本人の会話の輪には加わらなかった。一人でご飯を作り、一人でテレビを見ながら食べていた。みなでカツ丼をつくった日は、一緒に食べないかと誘ってみたけれど、彼女はどうやらベジタリアンらしく、ありがとう、でもお肉は食べられないの、と言って笑顔で首を横に振った。
 彼女の存在には、何かしら心惹かれるものがあった。しかし話しかけるきっかけもなく、彼女もなんとなく日本人と関わることを避けているような感じだったので、彼女がどんな人なのかは分からなかった。
 彼女と話すことになるきっかけは、私が盗難に遭ったことだった。私はこのあと、ハラレ駅でバッグを奪われることになった。そしてそれが彼女と話すきっかけになった。もし私が盗難に遭わなければ、彼女と親しく話すことはなかっただろう。そのことを考えると、私は私のバッグを奪ったあの男を、それほど憎むことはできなかった。

 宿で数泊してから、私はたまには自転車を離れて旅行しようと思い立った。自転車で旅をしていると、走るルートの近くの観光地は行けるが、そうでない場所に行くのは難しい。ジンバブエにはいくつもの魅力的な場所があったので、私は一週間だけ自転車を離れてバックパッカーになり、チマニマニ国立公園のトレッキングとグレート・ジンバブエ遺跡を回る小旅行をすることにした。自転車や必要のない荷物は宿に置いておいた。寝台列車を予約し、私は夕方にハラレ駅へ向かった。

 ジンバブエの首都ハラレの駅ホームは天井が高く薄暗かった。もう日は暮れており、ホームには列車を待つ人がまばらに固まっていた。
 ホームに定刻通り列車が入ってきて、大きな音を立てて止まる。私は予約していた二等寝台の車両の番号を探し列車に乗り込んだ。四つの寝台があるコンパートメントの中は暗く、電気が点かない。寝台の下の段にバックパックとショルダーバッグを置いて、自分も寝台の上に座る。しばらくすると男が一人入ってきた。挨拶をすると、どこから来たのか、電気は点かないのかと聞いてきた。
 やがて別の二人組の男が入ってきた。彼らの荷物が二つ、三つと運び込まれ、暗いコンパートメントの中は荷物だらけになった。電気は点かないのか、と後から入ってきた二人組の男の一人も聞いてきた。点かないみたいだと答えながら、でもどこかにスイッチがないかとコンパートメントのなかを探していたときに、視界の隅に初めに話した男が出ていくのが見えた。ふと不安に思い、自分の荷物を調べる。バックパックはある。しかし、ショルダーバッグが見あたらない。
 盗られたのか?
 一瞬よぎった思いをすぐに「まさか」と打ち消す。そして席の下や他の荷物の後ろなどを探す。暗くてよく分からない。しかし、先ほど置いたはずの場所には見あたらない。他の場所にもない。本当に盗られたのか? 半信半疑のまま急いでバックパックをかついで列車を飛び出しホームに降りる。見回したが男の姿はどこにもない。
 一瞬にしてショルダーバッグの中に入っていたものが思い出された。一眼レフカメラ、トラベラーズチェック全額、ウォークマン、財布、度入りサングラス、それらが全部入っているバッグだった。あれが全部盗られたのか?
  全力で駅の入り口まで走る。しかし男はもうどこにもいない。近くの鉄道警察へすぐに盗難に遭ったことを告げた。警官はトランシーバーで他の警官へ連絡を入れた。怪しい者がいたら捕まえろと言っているようだった。

 警官に案内されるままに改札の横にある警察の詰め所に行く。そこで警官にどんなバッグだったのか、何色か、中に何が入っていたのか、どのような状況で盗られたのか、聞かれるままに答えていた。
 三人の男が詰め所の脇に、後ろ手に手錠をかけられ座らされていた。私とは別の盗難未遂で捕まったらしかった。私が警官の質問に答えているあいだ、別の警官がその男たちを立たせ、警棒で一人ずつ叩きだした。パンという大きな音と、くぐもった男たちの声が部屋に響いた。男たちがうずくまると、警官は何か罵るようなような言葉を口にしながら背中や足を蹴った。男たちは着古したシャツとすりきれ穴の開いたズボンを着ており、見るからに貧しそうだった。叩かれるたびに低い声を上げ、諦めたかのようにふてくされ、全く抵抗しなかった。
 私は警官の質問に答えながら、その様子を目の端で見ていた。しかしバッグを盗られたことが信じられず、万が一にもどこからか出てきはしまいかと祈るような気持ちばかりで、目の前で起こっている寒々しい暴力の光景も、テレビの中の出来事のようだった。そのうち警官は男たちを立たせ、もう一度強く警棒で背中を殴りつけてからどこかへ連れていった。
 やがて警官の質問が終わり、明日また来いと言われ詰め所を出た。小旅行はいずれにせよ中止せざるを得ない。
 ホームに戻ると列車はまだ出ていなかった。再び乗り込み、もしかしたら思い違いだったかもしれないという淡い期待を抱きながら、もう一度コンパートメントの中を探す。しかしどこにも見あたらない。同室者に尋ねても俺たちを疑わないでくれという口調で首を振るだけだった。それでも未練がましく部屋の中の暗がりを探しているうちに、急にガタンと音がして列車が動き出した。慌ててコンパートメントから出て廊下を走り、ゆっくりと動き出した列車から飛び降りる。列車は徐々に加速し、やがて大きな音をたててホームから出ていった。
 もう夜も遅かったので、駅からタクシーを拾い宿へ帰る。とにかくトラベラーズチェックを全額盗られたので銀行へ国際電話をし、番号を告げてその番号を止めてもらう。四千二百六十ドル、約五十万円分…。そのときできることはそれだけだった。明日から忙しくなりそうだ。警察へ行きポリスレポートを作成し、トラベラーズチェックの再発行の手続きをして、保険の手続きもしなくてはならない。

「私、英語の通訳の仕事とかやってたから、もしあれだったら付き合うよ」私がたどたどしい英語でやりとりしているのを見かねたのか、そう言って私に声をかけてくれたのが、あの、いつも一人でいた女の子だった。「ほら、盗難に遭ったときって心細くなるじゃない? 一人でこういう手続きするのって」
 彼女の名前はニコさんといった。そして彼女は次の日から種々の手続きを助けてくれた。手続きは順調に進み、数日後トラベラーズチェックは無事再発行された。
 盗難が縁となり、それからニコさんと話すようになった。町を歩きながら話し、宿で遅くまで話した。ニコさんは小柄で、肩までのストレートな髪をし、意志の強そうな目をしていた。私は彼女の話に魅了された。彼女はもう五年もずっと一人でヒッチハイクをしながら旅をしていた。
 ある日、夜中の台所で彼女と話したとき、彼女は今までの旅の話をしてくれた。
「大学にいたときは休みごとに旅に出ていたの。ヨーロッパとかアメリカとかに、休みの期間中ずっと行ってた。でも二ヶ月ぐらいの短期の旅ではもの足りなくて、卒業と同時に日本を出たの。日本を出たときは四千ドルぐらい持ってた。先進国は大体回っていたから、今度は途上国中心に世界一周しようと思って、中米、南米を一年半かけて旅した。でもそれでお金がほとんどなくなって、それからは旅先で働きながら旅を続けたの」
 彼女は私の持っていた世界地図を指差しながら、いろいろな話をしてくれた。中央アフリカのチャドで一週間道端で車を待ち続け、ようやく軍のトラックをヒッチしたとか、ザイールで車が来ないからジャングルを歩いて越えたとか。 
「夜中になっても村が見えてこなくて、ロウソクを点けて歩いたんだけど、風で消えるのよね。そのうち雨が降り始めて、道端は崖になっていて、反対側はジャングルで怖かった。そんなところを十日間ぐらいかけて歩いたらやっと抜けたわ」
「アフリカ、中東のあとは、アジアを旅してね、最後に中国も一周して、もう次は日本しかなくて、でもまだ帰国したくなかったの。だから中国をもう一周して、それからやっと世界一周の線を繋げるためだけに日本に帰国したけど、一カ月滞在しただけですぐに出てきたの」
 私は彼女の旅の話に魅了されていた。明確に話す口調の節々から意志の強さがにじみ出ていた。強く光を宿す目が印象的だった。
 彼女はガイドブックというものを持たないで旅をしていた。そしてハラレに着いてから体調を崩したらしかった。日本大使館へ行き、安い宿を聞いたらこの宿を教えられたのだという。普段なら絶対に日本人のたまり宿には泊らないと言っていた。
「南米で一度だけ日本人のたまり宿に泊ったことがあったの。そこには三十人ぐらいの日本人がいて、男ばっかりだったわ。それでドラッグやるか女を買いに行くかで何カ月も泊っているのよ。最低だと思った」
 彼女と話していて、女の子が一人でヒッチハイクで旅することの危険について話している時に、もしそういうことになったらという話で、彼女はこのようにも言っていた。
「私、そういうことになったら死ぬわ。死ぬほど抵抗して、だめだったら死ぬ。そういう覚悟で日本を出てきたの。ヒッチハイクで女の子一人だと、ありうるじゃない? でも五年間旅してきてまだ生きてるから、幸いそういうことにはなってないわ。みんなとても親切にしてくれる。それに大丈夫かどうかはだいたい雰囲気でわかる。ただ私がラッキーなだけかもしれないけど」
 彼女は生命力に溢れた人だった。とても魅力的な人だったから、きっと長い旅の間にはいろいろな場面があったのだろうが、その度ごとに機転を利かせて、その生命力で切り抜けてきたのだろう。
 私は彼女が一人で道端に立ちヒッチをしている光景が容易に想像できた。道端で親指を立てて車に合図を送っている姿や、停まった車に駆け寄り、笑顔で話しかけ、荷台にバックパックを投げ込む姿がありありと想像できた。彼女はどこまでも自由で、惚れ惚れするほどかっこよかった。彼女は語学にも堪能らしかった。英語はもちろん、フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語も話せるらしかった。それらを駆使し、彼女は世界中を風のように旅していた。私が憧れ続けている生き方を彼女はしていた。「もう日本には帰る気はないわ」と彼女は言っていた。

 旅は出会いと別れの繰り返しであるということを、宿に泊っている間につくづく思い知らされた。旅人たちはみな旅の途上で、かりそめの出会い、かりそめの縁だった。数日後にはそれぞれの方向に出発していった。
 ニコさんも体調を元に戻したみたいで、出発するという。出会った人たちの連絡先を書いたアドレス帳も盗られてしまったので、ハラレで新しく小さな手帖を買った。彼女が出発するという日の前日、私はその手帖を渡して連絡先を書いて欲しいと言った。
「私、いま三百ドルぐらいしか持ってないの。だからケープタウンまで行ってから何か仕事を見つけて働くわ。そして飛行機代を貯めたらイタリアの友だちの家に行くつもり。だからその家の住所を書くね。でもまた会えるかどうかは分からないわね」
 彼女は手帖を受け取ってからそう言った。そして、最初のページは嫌だからと言い、ちょうど真ん中のページを開き、そこに友だちの住所を書いてくれた。
 次の日の夕方、あと一時間後に旅立つというときに、彼女は「髪を切ってあげる」と言った。先日私は他の旅行者に切ってもらっていたのだが、その髪型がどうしても変だと言うのだ。
「時間がないから早くそこの水道で髪を濡らして」そう言って水道を指差した。
 私が中庭の水道で髪を濡らしていると、彼女はどこからか椅子を見つけてきて中庭に置いた。私が座るとすぐに髪を切りはじめた。手慣れた手つきだった。
「私、大学のときに寮に住んでいたんだけど、みんなの髪を切ってあげていたの。五十人ぐらいの人たちみんな。香港では美容師の仕事もしたことがあるの」
 そう言って、私の持っていたハサミが全然切れないと文句を言いながらばさばさ切ってくれた。
「こんなのでどう? さっきよりずいぶんマシよ」
 すっきりした。とても嬉しかった。

 彼女が宿を出ていく直前に、私は街角でニコさんに渡そうと思い買った小物を渡した。彼女はありがとうと言って受け取ってくれた。それからすぐに彼女は出ていった。颯爽と、振り向きもせずに。彼女を見送ってから私は、もっと自由になりたい、彼女のようにもっと自由に生きたいと思った。それはかなしい生き方だともどこかで感じていたが、だとしても彼女のように自由に生きたいと強く思った。
 彼女との出会いは、私にとって、非常に印象深いものになった。そして彼女との別れは、その時の私に強い痛みを残した。きっと、彼女の中にあった何かが、その時私が求めていたことと深く呼応したからだろう。彼女の中にあった、とても強い想い。五年間もの長い間ずっと、辺境の地を、女の子一人でくぐり抜けさせるほどの強い想い。その想いが、自分の生まれ育った国や社会への強い不満に支えられていることは確かだった。彼女の言動のそこここには、日本への強い不満があった。彼女はよく、日本やその社会にたいする怒りを口にした。それは憎悪といってもいいぐらい強いものだった。しかし彼女は、その不満の泥沼にのみ込まれるのではなく、そこから一歩を踏み出し、自由に解き放たれていた。解き放たれ、遠くへ、もっと遠くへと一人で旅を続ける姿は、旅をはじめたばかりの私にとって、一つの理想的な姿に思われた。
 このような人に、私は今まで会ったことがなかった。私は初めて、自分の内にある、なにかとめどない想いを理解してくれる人に出会えた気がした。私は、どうしようもなく湧き上がってくるものに促されるまま歩いていた。そしてそれは彼女もまた同じであるように思われた。同じように歩いていて、そして遥か先を歩いている人に思われた。
 ジンバブエのハラレで別れてから約一年半後に、私はイタリアを旅していて、彼女の書いてくれた住所の近くまで来たので電話をした。電話口には彼女の友達が出て、ニコはいまアメリカに行っていると言った。そしてそれっきりになっている。
Back to Top