アリでビザの延長をした。それからトラックをヒッチしてグゲ遺跡に寄ってから再びカイラスに戻ってきた。そしてカイラスを出発し、千二百キロ先のラサを目指して走り出した。
 再び、朝から晩までひたすら漕ぐ日がはじまった。再び、地図を食い入るように見つめる日々になった。私は連日野宿を繰り返しながら、ゆっくり前進した。ラサへの道のりもまた、新蔵公路と同じぐらい厳しいものだった。毎日心を奪われるほどすばらしい景色なのだが、路面状態が悪く距離が延びない。空気が薄く、もうすでに高度順応しているとはいえ、上り坂でペダルを踏み込むとすぐに息が切れる。
 私は道端で野宿し、川で頭を洗い、村にたどり着いたら食料を買い足し、ただただ前進していた。そしてこういう日々はなんなのだろうと思っていた。今日が明日で明日が昨日だったとしても何の不都合もない。連日疲労困憊しながらも、淡々とした日々が続いていた。そうしてゆっくりと地図上に線を引いていった。

 自転車を漕いでいると時間がありあまるほどあるので、このころ私はずっと、これからどうするのかということを考えていた。
 旅が当初予定していたよりも遥かに長くなっていた。当初旅は二年の予定だった。それぐらいあれば十分喜望峰から日本までたどり着けると思っていた。しかし、実際に旅をしてみると、世界は思ったよりも広く、自転車は思ったよりも遅く、都市に滞在する期間も長くなり、旅が楽しすぎて、二年ではとても足りなかった。旅は長引くばかりで、もうすでに二年半が経過していた。
 私は旅の生活に浸かり、心の底までその生活に魅了されていた。しかし日本はもうそれほど遠くはなかった。きっとチベットの後はネパールへ行き、インドへ行くのだろう。その後は東南アジアに行きたい。それから中国へ行き、台湾か韓国から日本へ渡ることになるのだろう。いずれにせよ、もう日本はそう遠くない。このまま自転車を漕げば、日本にはあと半年から一年でたどり着いてしまう。そして日本にたどり着くと、否が応でも旅が終わってしまう。それが私は、どうしても嫌だと思った。そんな物理的な理由で旅が終わるのは理不尽だと思っていた。ではどうしたらいいのか。なにかいい方法があるのではないかと、あれこれ考えながら私は自転車を漕いでいた。

 ある日の午後、ふと谷をはさんで対岸の山肌を見ると、ごま粒のように小さな点が動いていた。ヤクだ。百頭はいるだろうか。そしてさらによく目を凝らすと、ヤクの群れの最後尾にヤクを追うおばさんがいた。遅れがちになるヤクを叩き、群れから離れていくヤクを巧みに群れに戻している。樹木はなく、まばらに草が生えているだけの見渡すかぎりの荒野を、ヤクの群れと一人のおばさんがゆっくり移動している。
 私はしばし自転車を停めて、その光景をじっと見つめた。こんな荒野が日々の生活の場なのだということがいまさらながら不思議に思えた。見渡す限りあまりにも広大なのだ。こんな場所を毎日ヤクを追いながら生きている人がいるということに、私はいまさらながら驚いていた。そして大都市の密集する建物を思い出し、本当にいろいろな場所で人は生きていると思った。しばらくしてヤクの群れは小山を越えて向こう側へと消えていった。
 また別のある日の夕方、そろそろどこかに野宿しようと思っているときに、前から馬に乗ったチベット人が来た。立ち止まって挨拶をして、どこから来た、どこへ行く、と少しだけ話す。
 それじゃあと行きかけると、彼はちょっと待てと私を引き止めて、ポケットから何かを取り出し手招きした。自転車を道端に置いて行ってみるとマッチを持っていた。そして彼は箱から一本取り出してすった。ボッと燃えてすぐ消えた。風が強いのだ。
 それから彼は私の顔をのぞき込む。そしてマッチを私に手渡して、マッチをする真似をする。なんのことかよく分からなかったが、とりあえず受け取り一本すってみる。やはり風が強く、ボッと燃えてすぐ消える。「何?」と彼の顔をのぞき込んだら、それあげるという仕草をする。私はあわてて遠慮する仕草をしたが、すぐに彼は馬を操り、くるりと向きを変えると、颯爽と傾いた夕日のほうへ行ってしまった。
 夜、私はライターを三つも持っていたが、わざわざマッチでロウソクに火を点けてみた。テントの中なのでマッチをすっても消えることなく、首尾よくロウソクに火を点けることができた。いつものようにロウソクの炎に見入りながら、チベットいいところだなと思っていた。
 チベットは、特にチベットの田舎は、どこまでも平和な場所だった。広大な高原の中で、深い信仰に支えられた穏やかなチベット人が、旅人を親切にもてなしてくれる場所だった。だが、そうやって私が幸福感を感じながら自転車を漕いでいる時にも、世界は変化していた。こんな平和な場所がある一方で、同じ時間に別の場所では不満や憎しみがある臨界点を越えていた。

 あとから日記を確認して分かったのだが、馬に乗ったチベット人にマッチをもらったのは九月十日のことだった。そして翌日の九月十一日に、ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突っ込んでいた。私は何も知らないまま、それから十一日間自転車を漕いでいた。世界は限りなく平穏で、チベットの山も空も何一つ変化せず、私はただ必死になって毎日自転車を漕いでいた。
 十一日後の九月二十二日、ラサまであと三日という地点でテロ事件のことを知ることになった。夕方、一人の自転車旅行者が川辺で休憩しているのを見かけた。話しかけるとラサから漕いできた日本人だった。今日の行動はそこまでとし、私たちは同じ場所にテントを張った。夕食を済ませ、岩に腰掛けて話しているときに知ることになった。
 これからどこに向かうんですかと聞くと、アジア横断の予定だったけど、パキスタンが通れなくなったので、デリーまで走ってから考えますと彼は言った。どうしてですか、パキスタンなら問題なく走れますよ、道もそんなに悪くないしと私が言うと、知らない人がいたんだと驚いた顔をし、それから、僕も詳しくは知らないのだけどと言いながら、ニューヨークで起こったテロのことを教えてくれた。
 始めはよくも真顔でこのようなデタラメを言えたものだと少し感心した。いくら情報に疎い生活を送っているとはいえ、そう簡単に騙されてたまるかと思った。ビルに飛行機が突っ込んだという彼の話は非現実的で、限りなくあり得ないことに思えた。しかし、何度聞き返しても真顔で同じことを言い、冗談でしたと言ってくれない。笑って、騙されましたかと言ってくれない。それに、冗談を言っているような口調ではない。写真も映像もないので、最後まで信じることができず、釈然としない思いで自分のテントへ戻り横になった。
 そして眠れなくなった。飛行機がビルに突っ込む場面を何度も想像していた。私の周りでは世界はこんなにも平和なのに、知らないうちに世界は激変していた。三日月が山の向こうに沈んでゆく様を眺め、ロウソクの炎を見つめている間に、戦争が始まろうとしていた。

 タルチェンから二十一日間連続して走り、とうとうラサにたどり着いた。テロ事件には心を痛めていたが、ラサにたどり着けたことはやはり心から嬉しかった。
 私は本当に長い間この日が来ることを待ち望んでいた。まだかまだかと毎夜ロウソクの灯りの下で地図をにらんでいた。ラサでやりたいことのリストはもうメモ帳いっぱいになっていた。しかし一番やりたいことはシャワーを浴びて、とにかくベッドの上で眠ることだった。
 ラサ郊外に差し掛かり、ラサの中心部へ入っていき、チベットの地図からラサ市街地図に切り替わる。あの憧れ願ったラサに自分がいることが信じられない。暗くなってからラサの中心部に着く。ポタラ宮殿は暗闇の中にそのシルエットが大きく聳えたっていた。そしてもう真っ暗になっていたが、宿を探すより先に私はジョカン寺へ向かった。ジョカン寺はチベット全土から巡礼者を集める、聖都ラサの中心にあるお寺だった。
 ジョカン寺の前の広場にたどり着き、そこからは自転車を降りて歩く。広場は街灯に照らされ、ジョカン寺の前には五体投地を繰り返す人々がひしめき合っていた。この人たちもこの寺を詣でるために遠くから来たのだろうか。私は五体投地を繰り返す人々を呆然と眺めていた。そしてラサにたどり着いたことをかみしめていた。しかし、そのときこみ上げてきたのは、安堵と喜びに包まれた、不思議に深い嫉妬心だった。
 私もまたここにいる巡礼者たちのようにラサにたどり着くことを想い、このジョカン寺に詣でることを想い、長い道を旅してきた。でも私は、やっとたどり着いてもただ眺めるだけで、喜びを投げ出して祈ることができない。なにかとめどない気持ちがあるだけで、それを形にする方法を知らない。私は初めて信仰を持つ人たちに嫉妬していた。心からうらやましいと思い、宿へ向かう。

 荷物を部屋へ運び入れ、まずはシャワーを浴びる。熱いシャワーを浴びたらため息が漏れる。アリで浴びて以来、実に一カ月ぶりのシャワーだった。長い髪が絡まっており、シャンプーをつけてもなかなか泡立たない。何度も何度もしつこく洗う。洗えば洗うほど目に見えて体はきれいになっていった。
 部屋へ戻り、横になっても目が冴えて眠れない。もう一歩も動けないほど疲れていたが、なぜか気持ちが高ぶってしまい、ふつふつと力が込み上げてくる。そして久しぶりにタバコが吸いたくなった。外へ出てまだ開いている店を探しタバコを買う。部屋に戻り、マッチで火を点け、一本吸う。ゆっくりと煙をはき、じっとタバコの火を見て、長かった、よくやった、とラサに着いたことを噛みしめていた。

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