喜望峰に着いたのは出発してから六日目の昼過ぎだった。あれだけ憧れ願った場所なのだから、もっと印象深い記憶があってもいいと思うのだが、いくら思い出そうとしても、これといったものはない。出発してからずっと続いている緊張と不安のなかで、閉じた貝のように無表情になっていたからだろう。いい天気だったこと、風が強かったことをよく憶えている。岬の先端に立ち、風で飛ばされないように帽子を押さえていたことをよく憶えている。とにかくここに来た、ということが重要だった。出発の場所と決めた喜望峰に身を運び、その岬の先端に自分を立たせることは、長い旅を始めるための、ひとつの儀式のようなものだった。

 喜望峰の次は、二百五十キロほど離れたアグラス岬へと向かった。
 喜望峰は正確にはアフリカ大陸の最南端ではなく、アグラス岬が最南端だったからだ。アグラス岬へ行くことも出発前に決めていた。これもまた長い旅のはじめの手続きのようなものだった。とにかくこの二つの岬に立たないことには旅がはじまらないと思っていた。この二つの岬に立って、自分自身に旅がはじまったことを分からせる必要があった。
 しかし、アグラス岬へと向かう三日間はずっと向かい風で、まだ自転車を漕ぐことに身体が慣れておらず、つらい日々になった。夕方に泊まる場所を探すときは、本当に見つかるのか、締め付けられるような不安を感じた。疲れ果て、やっと探し当てた宿のベッドに倒れ込み、一体何をしているのか、こんなに遠くに来て、一日中向かい風のなか必死になって自転車を漕ぎながら、いったい何をしているのか、ほんとうに分からなくなった。そして夜に一人でいるときには、引き裂かれるような、堪え難いさみしさに襲われていた。こんな日々がこれからずっと続くのかと思うと、絶望的な気持ちになった。
 それでも、朝、自転車にまたがり、ペダルを踏み込むときはよかった。荷物が前後左右に計六つも積まれていて、重くてバランスをとることに慣れないが、ペダルを踏み込むと自転車は気持ちいいほど前に進んでくれた。前日泊まった宿やキャンプ場が後ろに流れていき、同時に、重苦しかった気持ちも嘘のように後ろに流れていく。

 アグラス岬は閑散とした場所だった。ちいさな村の外れに最南端を示すモニュメントがひっそりと立っていた。モニュメントの前で写真を撮ってから、村の外れのキャンプ場にテントを張った。だだっぴろいキャンプ場にテントを張っているのは私しかいなかった。小高い丘の上に灯台が立っているのがキャンプ場からも見えた。
 着いた日の夕方から小雨が降り出した。そして翌日もまた雨だった。出発するか迷っていたら昼過ぎになってしまい、あきらめて連泊することにした。しかしやることが何もなく、テントの中で、雨音を聞きながら、一日中ひざをかかえて座っていた。
 テントにあたる雨音が、「内」と「外」との境界をはっきりと感じさせ、「内」に閉じ込められているという想いを増幅させる。そして私はこのとき、自転車を漕ぐことでどうにか目を逸らしていたさみしさに捕まっていた。成田空港のゲートをくぐったあの瞬間から立ち現れた「一人になった」という圧倒的な現実に捕まっていた。雨の中出発することもできたが、私は自分を甘やかし、今日は出発することをやめ、さみしさに浸かり切ってしまうことを許した。私は一日中ひざを抱え、会いたい人たちのことをずっと想っていた。そしてその間にある数万キロの距離のことを想い、どうしたらいいのか分からなくなっていた。
 このとき感じたさみしさを、いまでもありありと思い出すことができる。それは、ぞっとするほど生々しいものだった。「さみしい」という感情がどういうものなのか、はじめて知らされている気がしていた。それは「切り離されている」という感覚だった。そして「守られてはいない」という感覚だった。私は生まれ育った場所からひとり切り離され、数万キロ離れた場所に置き去りにされている。私を知る人が、ここには誰もいない。私を守ってくれていたものが、ここにはなにもない。
 盲目的に、強引に、私は自分を、慣れ親しんだ安全な場所から、引きはがしていた。そして「いちばん遠い場所」に置き去りにしてしまった。私は自分に対して、とてつもない暴力を行使していた。「こんなはずではなかった」とずっと思っていたのをよく憶えている。

 午後遅くになって雨はやんだ。テントから顔を出すと、丘の上にある灯台の光が夜空を規則的に回っていた。テントから出て、キャンプ場を抜け出し、ふたたび岬のモニュメントがある所まで行く。モニュメントの少し先は海岸で、波が規則的に打ち寄せていた。海岸まで行き、ヘッドランプで波を照らす。波打ち際に行き、顔を洗う。
 背後には灯台が規則的に光を投げかけ、暗い夜の海の先に消えていた。波が打ち寄せ、岩に当たる音が心地よい。顔を洗うと、さっきまでの閉じた感情もまた、すこし洗い流されていた。そして私はここで、改めて一つのことに気がついた。それは、ここはアフリカ大陸の最南端だ、ということ。そして、ここよりもう南へは行けない、ということ。となれば、ここから自転車を漕ぎ出せば、どうしたって、日本へ「帰る」ことになる。
 この気づきは私を強く励ました。私は帰りたかった。切実に、とても強く、帰りたいと思っていた。それ以外に望むことなど何もなかった。明日は朝から自転車を漕ごうと思った。

 そうやってアグラス岬を出たのだが、それから二日後に、私はさらに生々しい現実に直面することになる。強盗に遭ったのだ。旅の現実は、私の想像していたものとはかけ離れていた。
 アグラス岬から漕ぎ始めて二日目のこと。
 私はケープタウンまであと二十キロの地点を漕いでいた。日が傾き、前方の空が次第に赤みを増している。私は汗をかきながら、暗くなる前に宿に辿り着けるだろうかと少し焦り始めていた。走っている道はケープタウンの中心へ向かう国道二号線、交通量は多い。
 前方に、身なりの貧しそうな黒人が二人立っていた。ヒッチハイクでもしているのだろうか。私が近づくにつれ、二人はゆっくりと進行方向に出てきた。そして二人の横に差し掛かったとき、突然一人の男が自転車のハンドルに掴み掛かってきた。転倒しそうになり、急ブレーキをかける。振り向くともう一人の男は後ろにくくりつけてある荷物を掴んでいる。
 なぜ急に停められたのか、一瞬混乱する。そしてハンドルを掴んでいた男がフロントバッグを奪おうとしているのを見て、強盗だということに気がつく。とっさにその男の両手首を掴み叫びながら抵抗する。大声で叫び、男の手をバックから引き剥がす。男と揉み合いになり、掴んだ手が汗で滑る。男は掴まれた手を振り解き、フロントバッグに付いていた地図入れを剥がし取る。それから周囲を見回し、数歩退く。振り向くと後方にいた男も自転車から離れていた。そして二人は、道に沿うようにあるスラム街の中へ逃げていった。見回すと、車が三台停まってくれていた。落ちていた地図入れを拾う。息が切れ、何度も叫んだため喉が痛い。大丈夫か? 停まってくれた車の中からおじさんが声を掛けてくれる。他の車からも数人出て来てくれ、大丈夫かと声をかけてくれる。大丈夫、と答える。答えた自分の声がどこか遠いところから聞こえてくるかのよう。このあたりはスラム街で、とても危険なんだ。よかったらケープタウンまで乗せてあげるよ。自転車は荷台に載せればいい。ピックアップトラックのおじさんが声をかけてくれた。私はありがたく、乗せてもらうことにした。
 ケープタウンの安宿まで車に乗せてもらった。宿にたどり着き、受付を済ませ、荷物を部屋に運び入れた。宿はドミトリー形式の安宿で、三段ベッドが三つ並ぶ部屋だったが、部屋には誰もいなかった。夕食の時間だったからか、庭から盛んに陽気な話し声が聞こえてきた。
 梯子を伝い三段ベッドの一番上に上がり腰掛けた。やがて興奮が収まってくるにつれ、体が震えてきた。男の手首を掴んだ感触が手に生々しく残っている。自分の叫んだ声がまだ耳に響いている。私は何度も何度もNO!と叫びながら男の手首を掴み抵抗した。あのときもう少し冷静になれていたなら、抵抗などすべきではなかった。もし男が素手ではなくナイフを持っていたなら刺されていた。もし銃を持っていたなら撃たれていた。そう思うと、みぞおち辺りが締め付けられるような恐怖と怒りを感じた。
 そして掴んだの黒人の手首の貧しさ。「貧困」から強盗をしているのは明らかだった。もしかしたらナイフすら持てないほど貧しいのかもしれない。そう思うとやりきれない思いになり、私は何に対して怒ったらいいの分からなくなった。私は、生々しく「貧困」という現実を体験していると思った。大学の教室で、世界経済の講義を聞いているのとは訳が違った。
 三段ベッドの一番上は天井に近く、すぐそばで天井に付けられたファンが回転している。自分の体なのに、汗すらかいているのに、小刻みな震えは止めることができない。心臓が、大きく脈打っている。庭から楽しげな声が聞こえてくる。回転するファンの風が私の体にあたる。
 私はきつくひざを抱えて座りながら、さみしさと恐怖と怒りに、なにか暴力的なまでの強さで圧迫されるのを感じていた。成田空港のあのゲートをくぐってから、世界はあまりにも生々しくなっていた。こんな感情のなかをこれからずっと旅しなければならないのか…。
 帰りの飛行機のチケットを持っていることが、思いのほか負担に感じられた。南アフリカ共和国にはそうでないと入国できないので、日本から往復のチケットで来ていた。貴重品袋に入れているチケットを取り出し復路の日付を確認すると、あと三週間後だった。
 私は帰りたいと思った。もうこんな危険な目には遭いたくなかった。強盗に遭ったのだから、帰る理由としては十分だと思った。帰れるものなら、今すぐにでも帰りたかった。
 しかし、私にはその選択肢がなかった。帰るのなら、自転車を漕いで帰るしかない。なぜなのかは分からないが、どうしても自転車で帰るしかない。震える体を押さえながら私はずっと、自転車で帰るしかない、どうしても自転車で帰るしかないと、そればかり思っていた。このときの頑さ、このときの「どうしても」という想いを、私はよく憶えている。想いは、私の深層から、こんこんと、途切れることなく流れ出ていた。私の身に何が起ころうと、私がどんな感情に捕われていようと、どんなときにも、止むことなくそれは流れ出ていて、私をその先へと連れていった。

 翌朝、宿に備え付けられている公衆電話から日本へ電話をかける。電話口には母が出て、途中で父に替わった。強盗のことは言わず、いまケープタウンにいること、これからナミビアに向かうこと、元気だということを手短に話してすぐに切った。
 受話器を置いたときに、なにか底を蹴ったような感覚があった。一方の極からもう一方の極へと気持ちが反転していた。こんなことで辞めるぐらいなら初めから旅になど出ていない。走り出せば大丈夫だ。走り出し、風を切って前進しさえすれば、どんな感情も後ろに流れていく。航空券が無効になるまであと三週間、できるだけケープタウンから遠ざかろうと思った。

 翌日ケープタウンを離れ、一路北へと走り始める。
 強盗に遭遇してしまった影響で、道端に人が立っていたら強盗かもしれないと、そのつど身構えてしまった。私は心を閉じ、前へ進むことだけを考えていた。
 陽射しが強く、露出していた肌が見る間に赤くなり、水脹れができ、それが割れて皮がむけた。旅を楽しむなどといったことは二の次だった。私はとにかく前へ進みたかった。日本から数万キロ離れた地で、一日百キロ前後走り、日没が迫ってくるとあと十キロ、あと五キロ余分に前進したいとペダルを踏み込み、毎夜地図を食い入るように見つめていた。少しでも日本に近づきたかった。
 ケープタウンを出て十日目にナミビアに入国する。起伏がなくなり、見渡す限り地平線となる。前を見ても後ろを見ても、足元から伸びている道が地平線まで伸び、一点に収束している。

 ナミビアに入国して二日目のこと。
 夕方四時過ぎに道路脇にレストエリアが現れた。ベンチとテーブルがあり、陽射しを避けられる屋根もあるレストエリアで、野宿するには申し分のない場所だった。地図を見ると次の町までは四十キロほどありそうだ。その日はもう百キロ以上走っており、もうこの辺で切り上げるのが丁度いいように思えた。しかし、すこしでも先に進みたいという思いも強い。そして何より、次の町にたどり着いて冷たい飲み物を飲みたい。しかし疲労も激しく、あと四十キロ走る体力が残っているのか分からない。私はベンチで休憩しながら、一時間近くも行くかここで泊るか考え続けた。しかし、なにか冷たいものが飲みたいという欲求はあまりに強く、暗くなるにはまだ三時間近くあるのだから、ゆっくり漕げばたどり着けるだろうと思い出発した。
 しかし、たどり着けなかった。町まであと十三キロという地点で、ほんとうに自転車が漕げなくなってしまった。向かい風でも上り坂でもないのに、吐き気を催すほどの疲労で体が動かない。時間をかけてゆっくり漕げばたどり着くと思っていたが、そういう疲れではない。あと二、三キロは漕げるだろうが、十三キロはとても漕げないと思った。そして体力を本当にすべて使い果たしてしまったら野宿することすらできなくなると思い、諦めて走行を打ち切った。まだテントを張るには明るすぎて目立つので、暗くなるまで一時間ほど、道端の草むらの陰で気絶するように横になる。
 暗くなったらバッグからテントを取り出して張る。マットも寝袋も取り出す力がなく、ただ這うようにテントの中に入り、昏倒するように眠り少しの体力の回復をはかる。二、三時間後、極度の喉の渇きで目が覚めた。コンロに火を点け湯を沸かし、紅茶を作って砂糖を大量に入れ二杯飲んだ。それからバッグからマットと寝袋を取り出し、朝まで寝た。翌日は十三キロ走るのがやっとで、たどり着いた町のキャンプ場で冷たい飲み物を大量に飲みながらずっと休んでいた。

 そのような失敗を経験しながら、私はナミビアを来る日も来る日も北上し続けた。そして日が経つにつれ、自転車で旅をすることに体が慣れていった。徐々に、自分の体がどこまでの負荷なら耐えられ、どこまでなら次の日に疲れを持ち越さないか分かるようになってきた。どれだけの水と食料を持ち運ぶ必要があるのか、どれぐらいなら持ち過ぎなのかが分かるようになってきた。次の町までの距離と起伏を地図から読みとり、そこに今までの経験を重ね、微調整を繰り返しながら最適な水と食料の量を割り出していく。一日中吹き続ける向かい風に対して、どうやって怒らずに受け入れていくのか、いつ終わるのかわからない上り坂に対して、どうやって付き合っていくのか、経験を通して、様々な感情をくぐり抜けながら、徐々に学んでいく。
 そして私は、一日中体を酷使して前進するだけで、何かとても意義深い思いになれるようになっていった。私はこのような方法で世界を知ることを求めていたのだった。ただ自転車を漕ぎ、ただ光景が後ろに流れていくだけで、何を得ているのかは分からないが、そのようなことは問題ではなかった。自分の身体を使い、這うように前進することでしか得られないものがあると信じていた。強い陽射しに汗がとめどなく流れ、同時に、強盗に遭ってしまったことで滞っていた気持ちも徐々に流れていった。日本まで自転車を漕げばいいと設定した目標に揺らぐ気持ちはなく、その完成にささやかながらも日々貢献していることに喜びを感じ、自転車でゆっくり線を引いていることが誇らしかった。

  出発して二カ月ほど経ったある日、ナミビア北部のオカバンゴ川に面したキャンプ場でその日は休憩日とし、大きな樹の陰にマットを敷いて横になり、一日中うつらうつらしながら空を眺めていた。空は気持ちよく晴れていた。目の前をゆっくりとオカバンゴ川が流れていた。私は徐々に移動する木陰を追うようにマットを移動させながら横になり、眠ったり本を読んだりしていた。ときおり気持ちのいい風が吹き抜けていく。
 帰りのチケットはとうに無効になっていた。横になり流れる雲の動きを目で追っているうちに、ふと私は、「旅の空の下」にいることに気がついた。日本で狂おしいほど憧れ願った「旅の空の下」に、今、いるのだと思ったら嬉しさが込み上げてきた。
 夕方になり、テントの中でロウソクを灯し、地図を広げてのぞき込む。次の目的地、ビクトリア滝まではあと七百キロほどだ。そして、そういえばこの前会った旅行者が、満月の夜、ビクトリア滝に月光の虹が架かると言っていたことを思い出す。今は上弦の月で、あと一週間後が満月だった。一週間で七百キロ、大変だが、大変すぎるということはない。私は行こうと思った。満月の日までに、ビクトリア滝に。そう決めたら、急にわくわくしてきた。真夜中の、月光の、虹。なんという魅力的な響きだろうか。ぜひ見てみたい。なんとしても間に合わせようと思った。
 ビクトリア滝の後は、ジンバブエを旅することになる。私はガイドブックのジンバブエのページをめくり、ロウソクの明かりの下で読んだ。ジンバブエはどうやらとても魅力的な国らしい。なんでも、物価が安く、気候がよく、治安もまずまずで、遺跡や自然が豊富で、人々は陽気で親切らしい。首都ハラレのマーケット、チマニマニ国立公園のトレッキング、世界遺産の遺跡の数々。読んでいたらさらにわくわくしてきた。行きたい所ばかりで楽しみになってきた。どこまでも行ってやろう。なんでも見てやろう。深く、深く、アフリカへ――。
 目を閉じ横になっても一向に眠気は訪れない。私は出発して以来ずっと固まっていた心が、ゆっくりと解放されていくのを感じていた。旅に出てよかったなと思っていた。

 翌日から、私は月に追われるように先を急いで自転車を漕ぎだした。
 ビクトリア滝に満月の日までに到着すること。そのような明確な目標はよかった。明確な目標が、それほど遠くないところにあると、意識がそこに集中され、日々が一つの確かな流れへと変わっていく。
 上弦の月は、日一日とふくらみを増していった。ナミビア北東部もまた相変わらず平坦な道が続いていたが、それまで続いていたサバンナのような乾燥地帯から、北上するにつれて、樹々が増えていき、森を切り開いた道が地平線まで一直線に続くようになっていった。ときおり左手にオカバンゴ川が現れる。私は夕方に都合良くキャンプ場があればそこに泊まり、なければ道ばたにテントを張ったり、ガソリンスタンドの脇にテントを張らせてもらったりしながら距離を稼いでいった。

 ナミビアをぬけ、ボツワナを一日で横切り、ザンビアに入国する。そしてとうとう、ザンビア側のビクトリア滝に一番近い町、リビングストンに着いた。キャンプ場を探し、テントを張る。
 やがて日が落ちて、辺りは暗くなった。そしてしばらくすると東の空から月が昇ってきた。天に丸い穴があいているかのような完璧な満月だった。月の光は影ができるほどに強かった。これは本当に見れるかもしれない、月光の虹が見れるかもしれないと期待が高まる。
 キャンプ場から滝までは七キロほど離れていた。私がこれから滝を見に行くとキャンプ場の守衛さんに言うと、ゾウが出るかもしれないから気をつけろと注意してくれた。私はヘッドランプを点けて走った。全速力で公園の入り口まで走り、入り口で入園料を払い、自転車を降りて、そこから少し歩いた。そして、ついに見えてきたのだった。

 前方の木々の間から、青白い霧のようなものが現れた。それが虹だと分かるのに少し時間がかかった。滝に近寄り、手すりに身を乗り出してその霧を見つめると、確かに虹だった。青白い半円形の弧が、淡く色を変化させながら、暗闇の中に架かっていた。ため息が出るほど美しい。
 ふと気づくと、私は轟音に包まれていた。腹の底まで響く低い音だった。そして前方には滝があった。滝もまた月光に青白く浮かび上がっていた。どこまで落ちていくのか、覗き込んでも暗闇があるばかりだった。途方もない量の水が落下し、暗闇の中で砕け散り、混ざり合い、舞い上がっている様が想像させられた。
 轟音に包まれているはずなのに不思議な静けさがあった。滝と虹の光景が静止画のように見えた。非現実的な光景を前にして、時間の感覚も遠のいていく。

「間に合った」ということが、私には本当に嬉しく感じられた。
 雨期開けの、ザンベジ川が一番水量が多くなるこの時期の、晴れた満月の夜に、ちょうどここに居合わせることができた、ということが嬉しかった。可能性をたぐり寄せるようにして自転車を漕ぎ、そして見ることができたということが本当に嬉しかった。旅とは何なのか、何をすることなのか、私はしばしば分からなくなったが、このときばかりは、いるべき時に、いるべき場所に、いることができている、という思いを抱くことができた。
 この滝は、満月の夜ごとに虹を架けてきたのだろう。人間がここに現れる遥か以前から、誰にも見られず、誰に見せるわけでもなく、ただ自然の摂理に従い、途方もなく長い期間に渡って、雨期開けの満月の夜ごとにあの青白い虹を架け続けてきたのだろう。そう思うと、今見ている光景が、遥か昔の光景にも思えてくる。そしてそのような長い時の営みの中の一瞬に、遠くから来た私が居合わせられていることが、私にはとても不思議で、嬉しく感じられた。
 私は長い時間滝と虹を見続けた。キャンプ場に戻ってからもまだ、耳の奥に滝の轟音が響いていた。


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