新しい光景を
ヴィパッサナー瞑想体験記
本郷毅史
一、新しい旅
ある言葉が、ずっと胸の内で反響し、あたかも北を指し示す北極星のように、自らの歩んでいる道のりに寄り添い、ときにぶれを正し、道しるべとなっていくことがある。散歩をしているときに、電車の窓から外を見ているときに、ふとその言葉が脳裏をよぎる。そして反芻する。何度もその言葉が示す光景を、状態を、体験を、その真理を、好ましいものとして、価値あるものとして、ほんとうのこととして、日常の生活のすぐ隣で育てている。植物に水をやるように、大切に、その言葉を育てている。
一昨年の初冬、ずっと私の内に響いていたのは、こんな言葉。
静けさに満ちていて、それでいて開かれている。
その時読んでいたある本にあった言葉。著者がイギリスのある断崖を散策したときに、すれ違った青年が、その光景を形容して言った言葉。静けさに満ちていて、それでいて開かれている。そういう光景。そういう心の状態。そのような人。いつからか、その言葉が私の内に浸透し、そして発芽していた。私はその言葉にコンパスを合わせ、そして手さぐりで歩いていくための道しるべとしていた。静けさを価値とする、ということ。開かれてあるということを価値とする、ということ。
誰もが、それぞれの道のりを、一人で、手さぐりしながら歩いている。これからここに記す文章は、私が手さぐりしながら歩いた道のりのこと。私がヴィパッサナーと呼ばれる瞑想に出会い、それを実践した足跡のこと。いままで歩いたことのなかった道に踏み込み、そして歩を進めていったときに開けてきた光景のこと。
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一昨年の十二月のある日、五年ぶりにとしくんから連絡が来た。来週あたり東京に用事があって行くのだけど、もし時間が合えば再会しませんか、とのこと。
としくんとはじめて会ったのは八年前になる。私が喜望峰から日本までの自転車旅をしている途上、カルカッタのサダルストリートの宿で出会い、多くを話した。そのとき彼は大学を休学し、インドやパキスタンを旅していた。次に会ったのはその一年半後の夏。私はそのころ神奈川県の藤沢に住んでいた。彼は就職活動をしに東京へ来ており、私のアパートに数泊した。
そのとき以来五年間、お互い連絡もせずにいた。そして五年ぶりに阿佐ヶ谷で再会した。駅で待ち合わせ、カフェへ行く。彼とこの五年間おたがい何をしていたかを話す。彼は結局就職をせずに、五年間インドと日本を行き来し、ずっとヴィパッサナーとよばれる瞑想をしていたと言った。半年か一年インドの瞑想センターに滞在し、日本に戻ってきて一、二ヶ月アルバイトをし、また半年か一年インドのセンターに滞在するという生活を繰り返していたのだという。インドでは、田舎の村の、地元の人しかいない瞑想センターでずっと座っていたそうだ。朝から晩まで一日十時間、十日間連続で座り、数日休み、また十日間座る、あるいはその瞑想センターでボランティアとして働くということを繰り返していた。瞑想している十日間は完全な沈黙を守り、アイコンタクトも含め、他者とのあらゆるコミュニケーションができないのだという。
その日彼は私の部屋に泊ってくれた。彼は毎日朝と夜、一時間づつ座ることを日課にしていた。私の部屋でも、夜電気を消してから座りはじめた。私はいったん横になったが、一緒に座ってみたくなったので起き上がった。
としくんは「呼吸を意識する」という瞑想を教えてくれた。彼に言われた通りに、目を閉じ、座り、鼻から出入りしている呼吸を意識してみる。しかしいざ座ってみると、呼吸などまったく意識できなかった。その日にあったこと、ここ数日あったこと、現在抱えている想い、これからのことなどが、あふれるように湧き上がってきた。湧き上がってくる感情に飲み込まれるような不安を覚え、呼吸を意識することなど忘れていた。しばらくしてから思い出し、ゆっくり呼吸する。呼吸を意識する。しばらく座ってから、彼はまだ座っていたが、私は先に横になった。
次の日の朝も、としくんは私がセットした目覚まし時計の時刻より一時間早く目覚ましをセットし、座っていた。私も彼にならって起き、座る。昨夜と同じように様々な感情が湧き上がってくる。そして昨夜と同じようにその感情に飲み込まれるような不安を覚える。しかし、すぐ横で彼が座っている気配があり、この五年間、私がいま経験している感情とは比べ物にならないぐらい深い場所をくぐってきたのだと思うと、そこに彼が座っているだけで安心感があった。目を閉じて座ることであらゆる方向に感情は揺れるが、呼吸を意識することで、揺れる感情を中心に戻すような感覚があった。そして振り子が振れるように感情と呼吸を行き来しているうちに、感情がゆっくり地面に抜けていくような、過剰なものがアースされていくような気がした。
一時間ぐらい座ったときに、セットしていた目覚ましが鳴り、お互い目を開けて、おはようと挨拶をする。それから着替え、出かける用意をして、駅のホームで別れる。その日は、いつもと同じ日なのに、何かが違っているように思えた。公園の木々の緑や、木漏れ日の光が、いつもよりたしかに鮮やかに見えた。青空の青さ、雲の白さが、同じ青、同じ白のまま、いつもよりたしかに美しく見えていた。
これが、一昨年の十二月にあった、ひとつの出来事。こうして私はヴィパッサナーに出会ったのだった。それは深いところで、そのとき私が手さぐりで求めていたなにかと呼応していた。
年が明けて一月のある日、私はジョギングを始めた。はじめは一日おきぐらいで、やがて雨でない限り毎日走るようになった。なるべくゆっくり、息が切れないように走った。呼吸を観察し、膝の痛み、足の疲れ具合を刻々と観察しながら走った。
毎日夜になると、川沿いに長く伸びる公園の遊歩道を走っていた。川沿いにはずっと桜並木が続いていた。街灯に照らされた桜は、葉をすべて落とし、立ち枯れているようにさえ見えた。冬の桜並木の下を走りながら、この桜の樹々があと数ヶ月もすれば満開となることが不思議でならなかった。去年も、一昨年も、友人とこの公園の桜の木の下で花見をした。あのときの満開の桜。あのような劇的な変化が、春には毎年、時あやまたずやってくるということ。そのことが不思議でならなかった。枯れたようにしかみえない樹々の中で、いったいいま何が行われているのだろう。枝の中で、静かに、ゆっくりと、春に開いて行くエネルギーが満ちているのだろうか。
そして私は、時折座るようになっていた。二、三十分背筋を伸ばして座り、目を閉じる。そして鼻孔を入ってくる息、出て行く息を意識する。手さぐりで歩んでいたその手の先に、何かが触れたということ。そのことをゆっくり認めはじめていた。静かに座り呼吸を観察すること。その先には、何かがある。明らかに好ましい何かがある。
としくんがやっている十日間の瞑想コースは、世界中にセンターがあり、日本でも京都で行われているのだという。毎日走り、時折座り、そして私は、十日間コースに参加することを考えはじめていた。としくんと一緒に座ったときには、いつかそのときが来たらコースに参加するかもしれないとは思ったが、そんなにすぐではないなとも思った。しかし、別れた後ゆっくり自分の心と向き合っていると、徐々にいまがそのときのように思えてきた。
私はその協会のホームページを読み、そしてその瞑想について書かれた本を熟読した。それは宗教ではなく、ひとつの技術なのだという。十日間のコースで、そのヴィパッサナーと呼ばれる技術を習うのだという。言葉やイメージは使わず、呼吸と具体的な体の感覚を観察し続けると書いてあった。コース中男女は完全に分けられ、携帯電話やメールなど外部との接触を断ち、読むことや書くこともやめ、完全な沈黙を守り、朝四時から夜九時半までの間に、休憩や食事の時間を挟みながら十時間以上座るのだという。そして驚いたことに、参加費用は一切請求されないとも書いてあった。必要な経費はすべて、十日間のコースを終えた人からだけの、任意の寄付で賄われているのだという。スタッフも指導者もすべてボランティアで、そうすることにより、商業主義に侵されることなく、教えの純粋さを保っているのだという。そんなことが、この資本主義社会で成り立つのだろうか? しかし現に、世界中でコースは行われていて、京都でも二十年間もコースが行われている。コースの参加者は、としくんによると、ほとんどの人が口コミなのだという。私がとしくんから聞いて知ったように、口コミで広がっていき、マスメディアによる宣伝はしていないが、毎コースキャンセル待ちが何十人と出てしまうのだそうだ。お金も、なんとか赤字にはならない程度なのだそうだ。
毎日走り、時折座り、自分のなかにある遠い呼び声のような、かすかだけど確かに聞こえてくる声に耳をすますと、私がコースに申し込むことはもう、春に桜が咲くような、選択肢のないことに思えてきた。
しかし、私はすぐに申し込むことはできなかった。
私には「瞑想」という言葉におおきな先入観があった。あのオウム真理教事件以来繰り返し報道された、ヘッドギアをつけて座る信者、座りながら飛び跳ねる映像。私にとって「瞑想」という言葉が想起するものは、「洗脳」や「盲目的な信仰」であり、縁のないもの、遠ざかっていたいものだった。それは拒絶感といってもいいほど強い拒否感情であり、そのようないかがわしいもの、理性的ではないものには関わりたくなかった。私はマスメディアによって植え付けられた先入観に強く縛られていた。
にもかかわらず、としくんと一緒に座った経験の先に、あきらかに何か希望のようなものを感じていた。そして五年ぶりに再会した彼の、その静けさをまとった佇まいは、深く信頼できるものだった。さらにその後読んだホームページに載っていた言葉は、私の中にあった縛り目を具体的にひとつ解きほぐした。「生きる技」と題されたヴィパッサナーについて書かれたその言葉を読むことがきっかけとなり、私はそのとき捕われていた強い感情から抜け出していた。それは壁をすりぬけるような、火が吹き消されるような経験だった。
この協会が行っている十日間コースは十分信頼でき、理性の検証にも耐えうるものだという印象を、私はホームページからも、本からも、そして何よりもとしくんという友人の存在からも受け取っていた。しかし結局のところ、本当に理性の検証に耐えうるものかどうかは参加してみないと分からないことだった。
私は毎日走るという生活を続けながら、私の抱いている大きな先入観を、慎重に、ゆっくり端から崩していった。しかし、コースに申し込むには、なおも躊躇し続けていた。
私は、変わっていくことをおそれていたのだった。それがどんなに希望に満ちたものであっても、変わっていくことは怖かった。それは理性ではない、もっと生理的な抵抗だった。この一歩を踏み出すともう引き返すわけにはいかなくなる。そういう一歩だということをはっきりと自覚していた。そんな迷いの日々の中で、ずっと、ひとつの言葉が私の胸の内に響いていた。
静けさに満ちていて、それでいて開かれている。
十日間の完全な沈黙、その静けさのなかへ私を開くということ。それはいったいどのような体験なのだろうか。そしてその先にどんな光景が開けてくるのだろうか。私は、見てみたかった。どんなに大きな困難が待ち受けていようとも、その先に開けてくる新しい光景を、私は見てみたかった。
あのときと一緒だということを、私は感じていた。あのとき、喜望峰から日本まで自転車で旅することを決めたあのときと、本質的には何も変わらなかった。もう十年以上も前のことになる。大学に入学してすぐの五月、一人暮らしをはじめてまもないアパートで、真夜中に世界地図を見ているとき、ふと私は「ここから一番遠いところはどこだろう」と思ったのだ。そして南米最南端のホーン岬か、アフリカ最南端の喜望峰だな、と思った。地理的にはホーン岬の方が遠いが、そのとき私はアフリカの方がより遠いなと思った。そして地図上にある喜望峰を見て、「こんな遠い場所から日本まで自転車で旅したらおもしろいだろうな」と思った。そのとき、私の胸の一番深いところで、もう出発することは決められていた。待ち受けているであろう困難は問題ではなかった。私は、とてもシンプルに、そしてとても純粋に、わくわくしていたのだ。そんな大きな計画を、ほんとうに実行に移すのかと理性は抵抗したが、私には選択肢などなかった。
あのときの選択肢のない想い、あのときの深いところから力が湧いてくるような想い、それを再び感じていた。私はあのときと同じように、とてもシンプルに、そしてとても純粋に、わくわくしていたのだ。新しい光景が私の前に開けてくるかもしれないという予感。この虹が架かるような明るい予感があると、どんな困難があっても私は行動してしまう。だから理性を説得し、コースに申し込むのは時間の問題だった。
私は毎日走り続けた。そして、毎日すこしずつ先入観を切り崩し、変わっていく勇気を育てていった。それはコップに一滴ずつ水を足していくようなものだった。喜望峰からの旅を決めた時はたった一晩でコップは満たされた。今回はそうではないらしい。しかし、毎日、コップに一滴、また一滴と水を足していけば、やがてコップは満ち、水はあふれる。私はそのようにしてコースに申し込む気持ちを育てていった。そして二月のある夜、ようやく水はあふれた。私はコースに申し込んでいた。