新蔵公路を終えアリにたどり着き、五泊してからまた自転車を漕ぎ出した。八日間走り、タルチェンにたどり着いた。タルチェンはカイラス山巡礼の基点となる村だった。この村を基点として、巡礼者はカイラスを一周する五十二キロの巡礼路に出かけるのだ。
 チベットでは、聖なるもの、尊いものの周りを廻ることをコルラと呼んでいた。チベット人は、聖山、聖湖、寺院、仏塔などを経を唱えながら数珠をくり、コルラしていた。
 私は思い決めていたことがあった。この巡礼路を一つの区切りであるらしい十三周廻ろうと。一周目は二、三日かけて観光しながらゆっくり廻る。そして二周目からは巡礼として廻る。できれば一日一周で歩きたい。
 一周五十二キロの巡礼路がどれほど大変なのかは分からない。一日の標高差が千メートルある。途中、五千六百メートルの峠、ドルマ・ラを越える。自転車を漕ぐように目的地へ向けて線を引くのではない、円を描くばかりで何処にもたどり着けないのだ。五十二キロという距離は未舗装なら自転車でも大変なのに、歩いてそんなことを十三回もできるのだろうか? しかし、私はやってみたかった。一周でも多くコルラしてみたかった。

 タルチェンにたどり着いた次の日、さっそく一周目のコルラに出かけた。
 そしてその日の夕方、カイラスの北壁は尾根と尾根の間の谷からいきなり現れた。北壁は一枚の巨大な岸壁だった。その巨大な岸壁は、辺りのたおやかな山容とは明らかに異質で、吸い寄せられるような引力と、すべてを拒むような異様な存在感があった。この山がなぜ聖山なのか、私はたどり着いてみてもよく分からなかったが、この北壁を見た時は、そのようなことに鈍い私でさえも、この山が何か特別な場所であることを感じていた。
 次の日の早朝、朝日に北壁が照らされた。私は巡礼路を離れ、北壁のほうへと谷を遡っていった。小川は所々凍っており滑りやすい。注意して歩きながら一時間ほど谷を遡り、とうとう氷河の末端までたどり着いた。氷河に触り、少し氷をかじる。北壁はもうカメラのファインダーに収まり切らないほど大きくなっていた。
 三日目には五体投地をしながらコルラしている巡礼者に会った。小川が横切っていても、岩ばかりの荒れた道でも、体を地面に投げ出して進んでいる。一周を二週間ぐらいかけてコルラするそうだ。
 三日間で一周目を終え、次の日の早朝に二周目に出かけた。今度は一日で歩こうと思い、ポケットにビスケットを入れ、カメラを首からぶらさげるだけの軽装で出かけた。手にはタルチェンで手に入れた数珠を持ち、それを一つ一つ繰りながら歩いた。百八個の数珠は人間の煩悩の数を表しているのだという。数珠を繰ることに集中していると疲れを忘れられるのがよかった。三時間歩いては十分間休むというペースで飛ばし、十時間ほど歩いたところで猛烈な雨に見舞われた。雷が鳴り、みぞれ混じりの雨に叩きつけられ、現れた寺に駆け込んだ。その寺からタルチェンまで二、三時間の距離だった。時間的にも体力的にも十分たどり着けたが、雨脚は強まるばかりで、ストーブに当たらせてもらっていたら歩く気がしなくなったので、結局そこで寝かせてもらい、次の日の昼にタルチェンにたどり着いた。
 翌日三周目に出かけた。私はチベット人のようにどうしても一日で一周したかった。朝八時に出発し、十四時間ほとんど休まず歩き続け、夜十時にタルチェンに戻ってきた。最後の数時間は疲れ果てて足の裏が痛く、苦痛に顔を歪めながら足を引きずるようにして歩いていた。そのとき杖をついた老人と六歳ぐらいの女の子の巡礼者にも抜かれてしまった。女の子はてくてく歩き、しばらく歩いたら振り向いておじいちゃんを待つ。おじいちゃんが杖をつきながら歩いて女の子に追いついたら、女の子はまたてくてくと歩いていく。そんな二人組の巡礼者にも抜かれてしまった。付いて行こうとしたが引き離されてしまった。それでもどうにかタルチェンにたどり着き、三周目を終えた。

 三周コルラし、次の日四周目に出かけようと思っていたが、朝起きたら雨が降っていた。横になったままテントに当たる雨の音を聞いていたら私は挫けてしまい、どうしても出発することが出来ず、その日は一日テントの中で寝ていた。そして結局私はその日を境にコルラすることを辞めてしまった。十三周回りたいと思っていたが、三周回ったら満足してしまった。チベット人の巡礼者は、何年間もかけて遠くから五体投地をしながらカイラスまで巡礼しに来たり、何週間もかけて五体投地をしながら一周したり、何十周も、何百周もコルラしたり、とにかくその巡礼修行に費やすエネルギーには途方もないものがあった。コルラをしている時にそのような巡礼者にときおり出会ったが、苦行をしている様子はなく、みなどこかとても楽しそうにやっていた。そのような修行者のたたずまいは、イランの道ばたで出会った、徒歩で旅していた曾根さんを思い出させた。そして私は、カイラスのコルラを続けるよりも、早く自転車旅を再開したいと思った。コルラは途中で辞めてしまったが、自転車旅はそれができなかった。
 自転車による旅は、目標としていた場所にたどり着いても、すぐ次の目標が現れる。カイラスは分かりやすい目標だったけれど、カイラスのあとにはラサがある。ラサのあとにはカトマンドゥがある。カトマンドゥのあとにはインドがある。常に次がある。念願だったカイラスの巡礼を果たしながら、私の心はもう次の場所に向かっていた。
 それは渇望感と言ってもいいほどの強い旅心だったように思う。私は旅することに心から魅了されており、それはカイラスに着いても満たされるわけではなく、むしろさらに次を求め、どこまでも次を求めていた。自転車による旅は巡礼でも修行でもないが、私にとってはどうしてもやらなければならないことだった。なぜなのかは分からない。ただ私の中からおのずから湧き上がってくるもののままに生きようとしたら、私の場合は、喜望峰から日本まで自転車を漕ぐという形になっていた。カイラスを巡礼している修行者も、このような度し難い想いのままに巡礼しているのだろうか。私はきっとそうなのだろうと思った。内部にある、混沌とした度し難いエネルギーを形にしていくこと。その困難とその喜びを私は理解できると思った。方法は違うけれど、似たようなことをしている気がしてならなかった。

 タルチェンには二週間滞在した。最後にカイラスの南壁直下の内院へコルラをしに行った。南壁最奥には十三基の仏塔の跡があり、秘境感はこの上なかった。文化大革命のときにここの仏塔は破壊されたらしく、チベット人のおじさんが数人で仏塔を修復していた。こんな奥地にまでわざわざ仏塔を壊しにきた人がいたというのもまた驚きだった。内院コルラをしてから私はタルチェンを後にした。そしてカイラスの南にある聖湖マナサロワールへ移動し、三日間かけて湖をコルラした。コルラを終えるとパキスタンで取った七十日間ビザは残り二日になっていたので、ビザを延長するために一旦アリにトラックをヒッチして戻った。
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