カシュガルに五泊してからチベットへ向けて漕ぎだす。
 とうとうチベットへ向けて漕ぎだした。一体いつから私はチベットを心待ちにしていたのだろうか。ヨーロッパを走っていたときからだろうか。アフリカからだろうか。それとも出発前からだろうか。定かには思い出せないが、ずっと前から心待ちにしていたことは確かだ。そしてとうとうこの日が来た。何かとてもいい予感がする。このようにはやる気持ちを抑えながらチベットへ入っていけることが何より嬉しい。まずはウイグル自治区とチベットを結ぶ、新蔵公路だ。
 これから走る新蔵公路は、かつてないほど厳しいものになることが予想された。西チベットの中心都市アリまで、千キロ以上の未舗装路が続き、そのほとんどの部分が三千メートル以上の高地を通っている。四、五千メートルを越える峠がいくつも控えている。しかし、心も身体も自転車も今までで一番いい状態になっていた。私はどんなに厳しい道のりも走れる気がしていた。

 カシュガルから天山南路を三日走り、分岐を南へと折れたところから新蔵公路は始まる。分岐の町アーバーで一泊し、宿のシャワーで念入りに身体を洗う。これから先しばらくはシャワーを浴びれそうにないからだ。食糧も大量に買い込む。途中に村はあるのだからある程度は手に入るはずだが、ついつい買い込んでしまい、自転車がずっしりと重くなってしまった。
 新蔵公路がはじまるとすぐに道路が未舗装になった。想像以上に悪い道で、スピードが半分以下になる。そしてそれから峠が連続するようになった。上り坂が三十キロ、四十キロと続き、いくつもの山脈を越えながら標高が高くなっていき、空の青さも増していく。

 私はくる日もくる日も、上り坂に付き合いながら前進した。そして高度が上がり、空の青みが増すに従い、なんという山々、なんという空の青さだろうと、いま、ここを走っている喜びに突き上げられていた。上り坂が続き、劣悪な路面に苦しみながらも、ただ一人、この荒野をゆっくり前進している喜びは薄まらない。
 上り坂に疲れたら木陰を見つけて昼寝した。凄まじい青空に抱かれるように眠る時間が楽しく、昼寝をすることは習慣になった。急ぐことは何もないのだと言い聞かせ、今日の疲れを明日に持ち越さないよう注意していた。数十キロ続く上り坂に疲れながら、嬉しくて仕方がない。峠はまだかと思いながら、ゆっくり自転車を押して歩いていることが嬉しくて仕方がない。
 その日の天気と、風向きと、路面の状態と、道の起伏に一喜一憂する日々だった。水と食料はあとどれくらい残っているか、次の村まであと何キロか、次に水を補給できるのはどこか、そういうことが常に頭を占めている日々だった。毎日テントの中で地図を食い入るように見つめ、今日走った距離を確認し、どこまで進んだのか、あとどれくらい残っているのかを確認し、眠りについた。

 ある日、上り坂が二日間に渡って続いた。私は五千メートルを越える峠に向かっていた。すぐに自転車に乗っていられなくなり、一日中自転車を押して歩いた。標高が高いため頭が痛くなり、少し歩くだけで心拍数が高まり、息が切れる。私は新蔵公路の核心部、中国とインドの国境未確定地域、アクサイチンの荒野へと向かう峠を登っていた。
 峠が近づくにつれ、これ以上ないというほど空が青くなりだした。しかしもうほとんど体に力は残っていなかった。数メートル歩いては休み、また数メートル歩いては休むということを繰り返していた。少し休もうと道端に座り込んだら、ビスケットをかじったまますこし寝ていたりした。ようやく峠にたどり着くと、一気に視界が開け、アクサイチンの荒野がどこまでも連なっていた。蒼空に真っ白な雲が浮かび、その雲の影が荒野をゆっくりと横切っている。私は峠に座り込み、峠からの光景を眺め続けた。
 次の村で食べる中華料理、ほとんどそれだけを希望にして私は前進していた。真夏なのに雪が降った日があった。一日中向かい風に苦しんだ日があった。牧民がパンをくれた日があった。湖畔の廃屋の中にテントを張り、星空を見続けた夜があった。しばしば道路を濁流が横切っており、そんなときは荷物を自転車からすべて外し、数度に分けてずぶぬれになりながら越えた。悪路で野菜を運搬していたトラックが横転したのだろう、道端に野菜が散らばっていたことがあり、トマト数十個、ナス七、八本、葱十本、瓜二、三本などを驚喜して拾ったことがあった。それから毎日十個ぐらいずつトマトを食べ続けていたら、だんだんトマトを見るのも嫌になり、ある日腐ったトマトを食べてしまい、猛烈に吐き、下した。それからまだ残っていたトマトを全部捨てたことがあった。頭がかゆくて川で洗った日があった。朝起きたら雨で、半日テントの中でふて寝していた日があった。村のレストランですさまじい値段をふっかけられ、頭にきてお金を叩き付けたことがあった。水はおもに川の水を飲んだ。雨期だからか、きれいな小川が一日か二日おきぐらいに現れ、そのまま問題なく飲めた。食糧は五日おきぐらいに現れる村の商店で買ったり、レストランで野菜などを売ってもらったりした。
 いくつ目かの峠で五色の祈祷旗がはためいているのを見たときに、とうとうチベット文化圏に入ったことを知った。それからぽつりぽつりと道端にチベット人の牧民のテントが現れるようになった。
 私はこのとき、西チベットの奥地にある聖山を目指していた。すべてはカイラスと呼ばれている聖山を訪れることで報われるという想いから、私はこの長大な道のりに付き合っていた。
 カイラス山、別名カン・リンポチェはチベット仏教徒にとっては地上に現れた曼荼羅、ヒンズー教徒にとってはシバ神の象徴として崇められ、さらにボン教徒、ジャイナ教徒にも崇められるという複合聖地なのだという。敬虔な巡礼者がチベットやインド中から集まるのだという。いつ私がカイラスの存在を知ったのかは定かには思い出せないが、これほどまでのチベットへの思い入れは、カイラスへの思い入れでもあった。カイラスは奥地にあるが故に、否応なく神秘性を帯びていた。

 一週間、二週間、三週間と私は漕ぎ続けた。いままで経験したどの道よりも厳しく、そしてどの日々よりも濃密だった。一日も休まずに走り続け、ただ前進するだけの日々だった。そして長い道のりに付き合い続けていると、その日々の淡々としたリズムが、私にある種の心の姿勢を形作らせていった。
 派手な出来事は起こらない。いつでも空は青く、雲は白い。夜になれば当たり前のように満天の星空か、冴え冴えとした月夜だ。上り坂が現れたら峠まで数十キロ付き合う。下り坂に喜び一気に下る。夜、適当な場所にテントを張り、ロウソクの炎をじっと見つめてこれからのことを考える。一日中朝から晩まで走るが三、四十キロしか進めない。その遅々たる様にざわめく心をどうにかなだめ、いつかはたどり着くと言い聞かせる。
 自然に抗いつつも従うという姿勢。自我を押さえることを要求されるめくるめく上り坂、長大な道のり。そして、従うという喜び。波が寄せては返す反復運動を繰り返すように、私の足は無限とも思える円運動を繰り返す。聖地を目指してただひたすらになる。私には信仰心はなかったが、このとき私は、このような心の姿勢を巡礼というのではないかと思っていた。私はただ自転車を漕いでいる旅行者にすぎず、何一つ祈りの言葉は唱えられなかったが、この一歩一歩とひたすらになる心の姿勢は、祈る行為とほとんど同じではないかと思っていた。

 いくつ峠を越えたのかもう分からなくなっていた。しかし、これが新蔵公路の最後の峠になるということは知っていた。
 朝からずっとゆるい上り坂が続いていた。空は抜けるような濃い青、漂白されたかのような真っ白い雲が、手が届きそうなほど低い位置にまばらに浮かんでいた。私は峠を越え、たどり着いた町で、シャワーを浴びること、思う存分中華料理を食べること、ベッドで一日中眠ることを繰り返し想像しながら、ずっと長い上り坂に付き合っていた。カシュガルを出発してから二十八日間、私は一日も休まず自転車を漕いでいた。
 やがて遠くに峠を示す祈祷旗が見えた。
 ほどなくして峠にたどり着く。ゆるやかな風が吹き抜け、五色の祈祷旗がかすかにはためいている。突き抜けるような蒼空に白い雲が浮かび、雲の影が荒野をゆっくりと動いている。峠を後にし、長い坂を下ると、西チベットの中心都市アリが現れた。
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