三十年前のある春の日、ウィーンの街角で父と母は出会った。
 母は二十三歳の女の子で、日本を出てきたばかりだった。横浜から船でソ連のナホトカへ渡り、シベリア鉄道と飛行機を乗り継ぎソ連を横断し、憧れの街ウィーンへたどり着き、そして次の日ウィーンの街を歩いているときだった。
 父もまた二十三歳だった。父は日本を出て一年あまりが経っていた。大学を休学して旅立ち、日本を出て最初にたどり着いたウィーンの街の美しさに魅せられ、しばらくこの街で勉強しようと決め、ウィーン大学で歴史の授業を受けながら思索の日々を送っていたある日のことだった。
 その日はよく晴れていた。公園の音楽堂からはヨハン・シュトラウスの軽やかな曲が流れていた。母は日本からの道中で知り合った友だちと一緒に街を歩いていた。もう昼食の時間になっていたが、その日は日曜日でレストランはみな閉まっていた。二人で開いているレストランを探しながら歩いているとき、黒いジャンパーを着た日本人らしき青年が通りがかった。あの人に聞いてみようと一緒に歩いていた友だちが青年に駆け寄り連れてきた。そうやって父と母は出会った。

 スイスを出発し、雪のちらつくヨーロッパアルプスを越える。雨に降られながらイタリアの町を通過する。落ち葉に埋め尽くされたスロベニアの森で野宿する。そうしてオーストリアの首都、ウィーンにたどり着いた。
  ウィーンに着いて二日目だった。一日中夢中で街中を歩きまわり、くたくたになった夕方、インターネットカフェがあったので入った。そこで何気なく母のホームページを見た。母がホームページを作っていることは知っていたが、今までしっかり読んだことはなかった。覗いてみると、母が二十三歳のときにヨーロッパを旅した紀行文が載っていた。
 母が三十年前にヨーロッパを一人で旅し、ウィーンで父と出会ったことは知っていた。旅のエピソードは母から断片的に聞かされていた。しかし、母がどのような気持ちで旅立ち、どのように父と出会い、そしてどのように旅をしたのかということはまったく知らなかった。
 読み始めたら止まらなくなった。ヒッピー、ビートルズ、東西ドイツ、学生運動とマルクス主義。そういう時代の空気を存分に浴び、母はヨーロッパ中を自由に旅していた。

 母は、初めの二カ月間ウィーンで働き、残りの二カ月間でヨーロッパを旅する予定で日本を旅立った。しかし、ウィーンに到着した翌日に父と出会い、当初の計画は崩れ去った。ウィーンで働いているうちに、四カ月間では短すぎると思い、帰りのチケットをキャンセルしてしまった。お金がなくなったらまた仕事を探すことにし、旅を延ばすことに決めた。父は夏にケンブリッジで英語の勉強をする予定だったので、ウイーンで二カ月働いた後、二人は一緒にイギリスへ渡った。
 イギリスに滞在しているあいだに、父の心は母から離れていった。そしてそんな状態のまま一カ月が経過し、二人はロンドンのキングスクロス駅で別れた。連絡先も交換せず、いつ、どこで再会するか何の約束もしないまま。連絡先を交換しないで別れるということは、再会することがほぼ不可能だということだった。母は列車に乗って行ってしまった父を見送ってから駅のホームで泣き続けた。
 それから母は、数週間ヨーロッパを鉄道で旅し、お金が少なくなってきたのでスイスのベルンへ行き、この街に滞在して仕事をすることにした。「一カ月後ぐらいにスイスのベルンに行くかもしれない」と何気なく言った父の言葉だけが手がかりだった。狭い屋根裏部屋を借り、どこかで偶然再会することを期待しながら街を歩き、新聞の求人欄に目を通し、面接を受けては断られる日々が続いた。
 そしてある日、ふと父がユースホステルに泊まっているかもしれないと思いつき、訪ねてみた。受付の人に尋ねると、ちょうど前日来たところだった。なんという偶然だろう。もし一日でも来るのが遅かったら、父はもうどこかへ行っているところだった。しかし今は出かけているようで宿にはいなかったので、母は自分の住所を書いた紙に、もしまだ会う気があるのならここにいますと書いて受付の人に渡し、父に渡してくれるよう頼んだ。
 そうして二人は無事再会した。それから二人でヨーロッパをヒッチハイクで旅し、一緒に北アフリカも旅してからアルジェリアで別れた。父はアジアを横断する旅へ向かい、母は九カ月間の旅を終えて日本に戻った。
 紀行文には、葛藤と決意を繰り返しながら、それでも自由に旅している母の姿が描かれていた。母がまだ母でない時代の姿は、私が旅する途中で出会った女の子たちと何も変わらなかった。将来への不安と、根拠のない自信。どうにかなると思い込める若さと、何者でもない危うさ。読みながら、書いたのが母であることを忘れていた。

 読み終え、インターネットカフェを出た。そして辺りを見回し、私はいまウィーンにいるのだなと改めて思う。読もうと思えばいつでも読めたのに、よりによってウィーンでこの話を読んでいることの不思議さを思う。そして、知りたくなった。正確にウィーンのどこで二人は出会ったのか、知りたくなった。日本にいる両親に国際電話をかけた。
 電話口には父が出た。元気だと言って母に代わってもらう。母はひとしきり私がウィーンにいることを羨ましがったあとに、「ウィーン大学の最寄り駅、地下にあるショッテントーア駅へ続くスロープを下り切ったあたり」だと教えてくれた。そして三十年前のその日のことを懐かしそうに教えてくれた。
 電話を切ったあと、地図を取り出して位置を確認する。さほど遠くはない。歩いて行ける距離だ。行ってみることにした。

 三十年前の話なのだから、駅の様子などどれだけ変わっていてもおかしくない。しかし、ショッテントーア駅に着き、地上から地下へと続くそのスロープを下り切ったあたりが見えた瞬間に、なにか暖かいものが内側をなぞるような感覚が湧きあがり、ああここなんだと諒解した。確かな証拠など何もなかったが、そこだけがなにか、不思議な親密さに包まれている気がした。
 そして三十年前に二人が出会った光景を思い浮かべた。そのときはお互いこれからどうなるかなど何も知らなかっただろうし、ましてや三十年後に息子がここに来て、出会った場面を想像することになろうとは夢にも思わなかっただろう。そう思うとなにか可笑しくなってくる。感慨深くなりしばらくその場に立っていた。
 それから、思いついたようにきょろきょろとあたりを見回した。考えてみたら今日は日曜日だった。そして私もちょうど二十三歳だった。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないではないか。今度は私の番かもしれないではないか。
「スロープを下り切ったあたり」を意味もなくうろうろする。壁に寄りかかり行き交う人々を眺める。タバコを一本吸ってみる。誰か声を掛けてこないだろうか? 開いているレストランを尋ねてこないだろうか? 勝手に一人でそわそわする。
 しかし、一向に何かが起こる気配はない。しばらく佇み、首をかしげる。どうやら私はここではないようだ。ちょっとほっとしながら、すごすごと宿へ引き返した。

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