セウタからアルヘシラスへ、ジブラルタル海峡を越える。一年二ヶ月かけて旅したアフリカ大陸から離れる。
アルヘシラスから先、ポルトガルのロカ岬へ寄ってからスイスへ行くか、それとも最短距離でスイスを目指すか迷った。
スイスで私は、日本人のパッケージツアーの現地ガイドとして、夏のあいだだけ働くことになっていた。仕事はナイロビで出会ったある日本人の女性から紹介してもらっていた。仕事が始まるまであと一カ月に迫っていた。それまでにどうしてもスイスにたどり着かなければならない。
最短距離を取るなら二千キロ程で一ヶ月あれば十分たどり着ける。ロカ岬へ寄るのなら三千数百キロになり、毎日百キロ以上走り続けても間に合うかどうか分からない。
ロカ岬はユーラシア大陸の最西端だった。岬に何かがあるわけではないが、これから先ユーラシア大陸を横断することを考えると、無理をしてでも行っておくべきではないかとも思う。そして迷った末に、休みなく一カ月間、毎日百キロ以上漕げばいいだけなのだと腹をくくり、ロカ岬へ寄ってからスイスへ行くことにした。
次の日から一カ月間休みなく走り続けた。ジブラルタル海峡から六日でロカ岬に着いた。そこからマドリッドにもトレドにも寄らずイベリア半島を横断し、バルセロナも通過し、ピレネー山脈を越え、フランスを横切り、野宿を繰り返しながら最短距離でスイスを目指した。
スイスで働くことは何よりも優先させるべきことだった。これから先の旅の資金に不安を覚えていたからというのが働く理由ではあったが、必ずしもそれだけが理由ではなかった。
いつからか、私はよく帰る夢を見るようになっていた。夢の中で私は旅を打ち切り、日本へ帰る飛行機に乗っていた。強盗に遭い身ぐるみはがされたり、病気になったり、あるいはただ衝動的だったりと、理由は様々だったが、私は日本行きの飛行機に乗り、そして機内で激しく後悔していた。まだどうにかして旅は続けられたはずなのに、それを打ち切ってしまったことを悔やみ、その後悔の念があまりに強くて目が覚めた。目が覚めると、テントの中だったり、安宿のベッドの上だったりした。そしてまだ旅は続いていることを知り、安堵していた。
旅を続けることは生命線のようなものだった。それが切れないように細心の注意を払っていた。喜望峰から自転車で引いた線は、内戦状態だったり、国境が閉じていたして、ところどころで切れてしまっていたが、旅そのものは切るわけにはいかなかった。旅が細い糸をたぐるような状態のときは、その糸をたぐることが何よりも優先された。
しかし、いつからか旅をたぐる糸が切れそうになっていた。私は旅に慣れていくにつれて、心の震えのようなものを失っていった。そんなときは顔の表面が、石灰のようなもので固められているように感じた。何かを変えなければとずっと思っていた。それがスイスで働くことで変わるのかは分からなかったが、旅を大きく区切る必要があった。
マリの首都バマコで、ずっとベランダから外を眺めていたときに感じていたことは、そのころの心境をよく現している。
私は夕方、泊まった宿のベランダから、鳥がまっすぐに太陽が沈む方角に向かって飛んでいくのを眺めていた。ねぐらに向かっているのだろうか。それとも遠くへと旅をする渡り鳥なのだろうか。二羽、三羽、ときには十羽ほどが固まって、次々と、どこからともなく現れては、まっすぐ西へと飛んでいた。どうしてそんなに揺るぎなく、一つの方角を目指せるのだろうか。鳥たちは何に促されて飛んでいるのだろうか。
私は鳥たちがうらやましかった。私も鳥たちのように揺るぎなく旅ができたらいいのにと思っていた。私はそのとき、自分が何をしているのか、よく分からなくなっていた。そういう想いに捕われることが、私には度々あった。そしてその度に私は混乱した。日本へ帰りたいというのは分かる。その促しは、十分すぎるほどよく分かる。ではなぜ、自転車で、これほどの困難をくぐり抜けて行かなければ帰れないのか。それをうまく自分に説明できなかった。私が迷いや混乱の中にいる一方で、鳥たちには迷いというものがないように思われた。私は自然の促しのまま飛んでいる鳥たちがうらやましかった。揺るぎなく一つの方向を目指して飛んでいる鳥たちがうらやましかった。私は日が沈むまでずっと、鳥たちが飛んでいく様子を見続けていた。
スイスのインタラーケンにたどり着いてすぐに、長かった髪をばっさり切り、新しい服を買い揃える。それを着て鏡の前に立つと、日に焼けている以外、出発前とさほど変わらない姿がある。今までの一年三カ月の旅が跡形もなく消え失せたように感じた。あっけなかったが、仕事をすることのほうが重要だった。
すぐに私は働き始めた。日本人団体旅行客のハイキングガイドをし、観光ガイドをした。今までとはまったく違った時間を過ごすことになった。目覚まし時計で目覚め、腕時計が必需品になり、カレンダーにはびっしりと仕事が書き込まれた。電話が鳴ったらすぐにとり、ファックスを受け取ったり流したりした。それは日本に流れている時間だった。なにもかもを片っ端から飲み込んでいく怪物に、自分もまた否応なく飲み込まれていく気がしていた。毎日の忙しさに追われながら、私は休みなく働き、慣れない仕事を必死で覚えていった。たまたま仕事がキャンセルになった場合を除いて休日はなかった。スイスに来るまで毎日書いていた日記が、働きはじめてから書く余裕がなくなっていた。久しぶりにノートを開くと、以前書いたのが、二週間前だったり、三週間前だったりして驚いた。長い時間が、瞬きしただけで過ぎていった。
私は主にスイスアルプスのハイキングガイドや町の観光ガイドをした。特にユングフラウヨッホのガイドは頻繁にやった。そこはスイス観光のハイライトで、登山列車で四千メートルに近い場所まで行ける。晴れたら圧倒的な岩と雪の光景で、世界でも有数の観光地だった。
私は居心地のいいマンションに住むようになった。そこがオフィス兼住居になっており、同じくガイドをしている日本人二人との共同生活になった。住居費や光熱費は会社が払ってくれた。駅から徒歩一分、歩いてすぐのところに気持ちのいい湖もあり、四階のテラスからは教会や川が見える。道端で野宿をしていた生活からはかけ離れていた。
忙しさに追われて働くうちに、いつしか私は自分が旅をしていることを忘れていった。自ら望んで旅を区切るために選んだことだったので、私は努めて仕事に専念した。劇的に生活が変わったが、私は急速にスイスでの生活に適応していった。
仕事をはじめて一カ月半あまりが経った八月二日のこと。
その日は午前の仕事でユングフラウヨッホに行ったときにお客さんが一人高山病で倒れた。車椅子に乗せすぐに標高の低い所まで下ろしたら治った。こんなことは初めてだった。
午後の仕事はなく、前日に急にキャンセルが入り、次の日から四日間も仕事はなかった。スイスに来てから初めての休みらしい休みだった。
昼過ぎに部屋へ戻り、テレビをつけ、NHKの国際放送にチャンネルを合わせた。ソファに寝ころびテレビを見るともなく見ていた。
そうしたら不意に友人の名前が画面に現れた。横浜の大学生が沢登り中に滝壺に転落し、死亡、とアナウンサーは言っていた。何のことか分からず、ちゃんとニュースを見ようとソファから起き上がったときにはもう次のニュースになっていた。意味が理解できず、頭の中を空白が占めていき、またソファに横になり、テレビを眺め続けた。
しばらくテレビを見ていたが、まったく頭に入ってこない。やがてゆっくりと、先ほど流れたニュースの意味が私の頭の中に入ってきた。私はソファから立ち上がり、ベランダに出た。タバコに火をつけ一口吸い、タバコの火をじっと見た。タバコはゆっくりと灰になっていった。その様子を見ていたら、彼と交わした記憶がありありと思い出され、そして強い感情が込み上げてきた。手が震え、タバコを持っていられなくなった。記憶の一つ一つがつっかえていたものを壊していった。どこにこれほど強いものがあったのかと驚きながら、肩を震わせ、手を握りしめ、長い時間泣き続けていた。
次の日から四日間ずっと部屋の中から窓の外を見ていた。四日間とも晴れわたり、雲一つない快晴だった。こんなにいい天気が続くことはいままでなかった。四階の窓からすぐの所に古いホテルがあり、その庭に針葉樹が数本立っていた。その樹々の緑を、部屋の中からずっと見ていた。
休みが終り、また元の忙しい生活が始まった。そして八月末にようやく仕事が終わった。しかしスイスを出て旅を再開する気にはとてもなれなかった。社長はしばらくマンションに滞在しててもいいよと言ってくれたので、私は仕事が終わってからもマンションに滞在し続けた。そして憧れだったスイスアルプスの峰々を、アイゼンやピッケルをレンタルし立て続けに登った。リッフェルホルン、ブライトホルン、ポリュックス、メンヒと登り、ガイドと共にマッターホルンも登った。フリークライミングも何度かした。
一つ一つの登山やクライミングは楽しめたが、心から満たされることはなかった。山から戻ってくると、こういうことをやっている場合ではないという気がしてきた。
ずっと友人の死が頭から離れなかった。私にとってそれは、はじめて接する「死」だった。私は生前の彼とそれほど深く関わっていたわけではなかった。それでも彼の死は、私に深い衝撃を与えた。「死」という私にとって理解を越える出来事によって、はじめて彼と深く関わっていた。
たった十数秒のニュースで急に彼がいなくなってしまうということが信じられなかった。その後共通の友人に問い合わせ事実は動かないことを確認したが、もし私がニュースに接することなく、したがって彼の死を知ることがなかったら、今も彼は生き続けていたのではないかと思ったりもした。
十月になって、一緒に住んでいたガイドの二人は日本に帰ってしまい、私一人だけになった。一人になると急に昼夜が逆転した。朝まで起きて、それから眠るような生活になった。ときおりスイスで出会った友人たちに会ったりはしたが、ほとんどの時間は部屋の中に一人でいるようになった。そして私は、これからどうしたらいいのか途方に暮れていた。
スイスで旅を区切り、もう一度旅をしたいと思っていたが、実際には思惑と逆になっていた。実際には、より深く混乱し、どこへ向かっても袋小路になっている気がしていた。スイスに居続けるわけにはいかず、いずれ出発することは確かなのだが、どこへ向けて出発すればいいのか分からなかった。あれほど帰りたいと思っていた日本に、私はそれほど引力を感じなくなっていた。かといってどこか別の場所に向けて漕ぎ出すというのも考えられない。やはり日本へ向けて漕ぐしかない。このまま自転車を漕いで日本へ帰り、あのような時間が流れている場所へ帰り、ふたたび怪物に飲み込まれることを考えると、暗く深い恐怖を感じた。どこへ向かっても行き止まりになっている気がしていた。
しかしそのような混乱を感じている時にも、私の内には、絶えず流れているものがあったようだ。なにがあっても、どんなときでも、私の感情や悩み事などお構いなしにそれは流れているようだった。ただそれが伏流水のようになっていて見えなかっただけのようだ。そして伏流水のようになっていたものが、あるとき何の前触れもなく、また現れてきた。
十月中旬のある朝、ベッドから起き上がると、何も変わっていないのに、何かが変わっていた。細部ははっきりしないが、夢の中で「まだ間に合う」と確信する場面があった。そしてそれを思い出すことで、さらにはっきりと変化が起こっていった。
そうして私は、喜望峰から日本まで自転車で旅をしているということ、その途上にいることを、思い出していった。そして私の内にある「どうしても」という度し難い想いと再び出会い、胸の高鳴りを思い出していった。ユーラシア大陸をこれから横断する。再び路上に戻り、今日はどこで寝ることになるのか心配する日々になる。いくつもの国を横断し、日本まで走る。結局のところ、私にはそれしかなかった。そしてそのことを深く自覚することで、再び私の胸の内に灯るものがあった。なぜそうするのか、なぜそうしなければならないのか、私には全く分からなかった。分からないが、根拠のない確信を再び抱けていた。そして、旅を進めるにはそれだけで十分だった。
私は出発の準備を始めた。フロントサイドバッグを新しいものに買い換えた。後輪のハブ、スポーク、リムをすべて新しいものにした。チェーンとブレーキシューも新しくした。
そして日本を出てからちょうど二十カ月目の十月二十七日、小雨の降る日に、四カ月あまり滞在したスイスを離れ、東へ向けて漕ぎだした。