新しい光景を ヴィパッサナー瞑想体験記
四、白い部屋、朝の霜
朝四時に起きて、座る。朝食をとり、休憩し、座る。昼食をとり、休憩し、座る。お茶をのみ、座り、講話を聞き、座り、寝る。
毎日が、完璧な規則正しさで繰り返されるようになった。はじめはこの生活に困難を感じていたが、それも数日ですぐに慣れた。やるべきことが朝から晩までぎっしりあるということは、むしろ楽だった。私がやるべきことは、座ること。タイムテーブルに従って座り、この瞑想法を学ぶこと。それだけに集中していればいいというのは、ほんとうに恵まれた環境だった。沈黙もまったく苦ではなく、むしろ心地よかった。多くの人と共同生活をしつつも一人でいられるということがよかった。さみしくもなく、孤独でもないが、一人でいられるというこの距離は経験したことがなかった。
やがてこの生活のリズムに慣れてくると、日々が、深く充実したものに感じられはじめた。一日一日が、とても貴重なものだった。相変わらず眠く、相変わらず足がとても痛かったが、それでも座ることが楽しくなってきた。
三日目の午後の瞑想時間だっただろうか。
ふと気づくと、私は深く集中していた。私は呼吸をはっきりと感じ続けていた。意識は呼吸にとどまり、その微細な変化を刻々と観察し続けていた。
それは今まで体験したことのない状態だった。呼吸は、ただ、出たり入ったりしていた。私の意識は、はっきりと「いま、ここ」に留まり続け、呼吸だけを観察していた。
それまでの二日と半日、私はひどい痛みと強烈な眠気の中で、とにかく我慢しながら座っていた。しかしこのとき私は、何一つ我慢していなかった。痛みはまだあったが気になるほどではなく、眠気はまったくなく、背筋はまっすぐに伸び、微動だにせずに座っていた。そして、ああやっと抜け出した、と思った。これまでの苦しいだけの状態から壁をすり抜けるように抜け出し、私は呼吸だけになっていた。
深い、深い、集中。私は、防音壁で囲まれた白い部屋に入ったかのような静けさを感じていた。そこでは私の鼻孔を出入りする呼吸の音しか聞こえなかった。かすかな、あるかないか分からないぐらいかすかな空気が、鼻孔を出入りしていた。鼻孔を出入りする空気が、鼻孔の内側の壁にあたっているのがわかる。鼻孔の下と上唇の上の部分に当たっているのがわかる。出てゆく息の方が、入ってくる息よりも、ほんの少しだけ温度が高い。右の鼻孔と左の鼻孔とで、出入りする空気の量が、右の方が多かったり、左の方が多かったり、ときおり同じだったりする。
私は、このままずっと座り続けられると思った。この静けさに満ちた白い部屋に、いつまでだって座り続けていられると思った。それは、いまだ体験したことのない状態だった。そして、そうであるにも関わらず、そこにはどこか不思議な懐かしさもあった。
鐘の音が聞こえ、瞑想の時間が終わった。皆が立ち上がり部屋を出ていく気配を感じる。私はしばらくの間、身動きがとれない。あまりにも深く集中していたので、どうやって体を動かせばいいのかよくわからない。それはまるで金縛りにかかっているような状態だった。意識ははっきりとしているのに、体の動かし方がよく分からない。そして、このままずっと座り続けていたい気もしていた。しかし、やはり、外に出て、お茶も飲みたい。
ゆっくりと指先を動かす。それから伸ばしていた背筋を丸め、すこしうつむいたままゆっくり目を開ける。一度深く息をはき、あぐらをかいていた足をほぐし、膝をかかえて丸くなり、しばらくはそのままじっとする。それからゆっくりと立ち上がり、ホールから出る。廊下を歩き、階段を降りる。足が少ししびれているので、手すりを持ち、一段一段と階段を降りる。私はいつの間にか、呼吸だけでなく、その動作のひとつひとつにも気づいていた。手すりを持つ手の感覚、階段を降りるときの足の裏の感覚、足を曲げる一連の動作、そのすべてに気づいていた。頭は何一つ想像することなく、階段を降りるという動作以外のことに気を取られることなく、私は、現実に感じている感覚だけを感じながら、階段を降りた。そして私は、いまだかつて、このように階段を降りたことがないなと思った。私は、ただ階段を降りただけなのに、新鮮な驚きを感じていた。それから私は、ドアをあけ、サンダルをはいた。食堂のひさしの下へ行き、コップをひとつ手に取った。ポットの上部を押して、ほうじ茶を入れた。椅子に座り、それを飲んだ。その動作のひとつひとつ、そこにある感覚のひとつひとつに気づいていた。手のひらに、はっきりとコップの温かさを感じていた。呼吸もはっきりと感じていた。瞑想の時間ではなかったが、座ってもいなかったが、私はまだ深い静けさと沈黙のなかで観察を続けていた。
それは新鮮な体験だった。私はいまだかつて、このようにコップを持ち、このようにお茶を飲んだことがないように思われた。「いまを生きる」という言葉が、全く新しい意味を帯びていた。「いま、ここ」という言葉の意味することを、初めて知った気がした。そして、私は、おもしろいと思った。知らなかった、とも思った。ようやくすこしだけ手応えを感じることができた。
その日はそれからずっと、集中して座ることができた。講話の時間もほとんど姿勢を崩さず座っていた。呼吸を観察し続けるという単純なことが、これほど面白いとは思っても見ないことだった。集中はどんどん深くなり、九時になり、瞑想の時間が終わってしまったことが残念にすら感じた。布団に横になってもまったく眠気を感じなかった。明日また四時に起きなければならないので、なるべく早く眠りたかったが、一向に眠くなる気配がない。横になりながらもずっと呼吸を観察し続けていた。
三日目のあの集中はなんだったのだろう。眠ったのか眠らなかったのか分からないような状態で、四日目を迎えた。四日目は一番大切な日、ヴィパッサナーが指導される日だというのに、朝から眠くて眠くて、何もできない状態になっていた。前日あれだけ集中して座れていたのに、次の日は、もう座ったとたんに足が痛くなり、退屈になり、眠くなった。前日のあの貫くような深い集中はなんだったのか。まるで潮が引き、海面がかつてないほど下がり、普段は見ることのできない海底の様子までありありと観察できたような、あの集中はどこへいってしまったのか。
一日経つと、今度は下がった海面が揺り戻されたかのように、私は眠気の海に飲み込まれていた。背伸びして必死に頭を海面から出そうとしていたが、とめどない眠気になす術もない。目を覚まそうといくらコーヒーをたくさん飲んでも、何度冷たい水で顔を洗っても、座ったとたんに眠くなる。午後のヴィパッサナーが指導される時間は、堪え難い眠気の中にいて、二時間の指導の時間の内、座っているのがやっとの状態だった。一番大切な指導だということは分かっていたが、とても聞いてなどいられない状態だった。半醒半睡の中で、ともかく部分ごとに頭からつま先まで、感覚を観察しなさいと言っていたことを覚えている。
五日目からようやく、私はヴィパッサナーを実践できるようになった。頭からつま先へ、つま先から頭へ、部分ごとに意識を持っていき、そこに起こる感覚を観察する。観察の対象は、あくまでも具体的な感覚。痛さや、ちくちくする感覚、かゆさやしびれ、冷たさや暑さ、服が肌にあたる感覚、そういう具体的で物理的な感覚を観察する。日が進むにつれ、部分ごとに観察したり、あるいは頭からつま先まで一度に全部観察したりと、様々な方法で観察するように指導される。
六日目だったか、あるいは七日目かもしれない。
朝四時に起きて、外に出る。その日はことのほか冷え込んでいて、満天の星空が見えた。顔を洗って眠気をとってから二時間座る。全身の感覚を、頭からつま先へ、部分ごとに、丁寧に観察していく。二時間、まずまず集中して座れた。終わりを告げる鐘が鳴り、立ち上がり、朝食を摂りに外に出ると、ちょうど朝日がのぼる時間だった。前方の山の尾根筋の向こうから太陽が顔を出していた。そして、辺り一面、地上から二、三メートルだけ霧がかかっていた。庭に出て地面を見ると、霜が降りていた。私は朝食は後回しにして庭に出た。
このときに見た光景を忘れることができない。私は庭に出てゆっくりと歩き回った。そして私はしゃがんで、霜が降りた葉っぱをしげしげと眺めた。それは、息をのむほど美しい光景だった。小さな葉っぱの一つ一つに、霜が降りていた。枯れた葉、緑の葉、一枚一枚すべてが、白く覆われていた。そしてその霜に、朝の柔らかい光が反射していた。その繊細な美しさが、私の胸の内の、いちばん柔らかい部分にまで届いていた。このような美しさを私は知らなかった。霜が降りた葉っぱの、その光を反射するちいさな結晶の一つ一つが、この上なくいとおしく感じられた。私は深い喜びを感じながらしばらく庭を歩き回り、それから朝食を摂りに食堂へ向かった。
深い沈黙の中で、このときの美しさは、私を深く捉えた。この朝の体験以来、私は目にする自然の草花や樹々、雲や風、水の流れる音、鳥の鳴き声、そのすべての美しさ、いとおしさに気づきはじめた。薄暗い瞑想ホールで座り、明るい庭に出る。そんなことを毎日繰り返していた。天候は刻々と変わっていた。座ってから外に出ると、晴れが曇りや雨に変わっていた。また座ってから外に出ると、青空に変わっていた。風が出ていたり、霧が立ちこめていたりしていた。その変化している天気のすべてが、なにかを教えてくれているように思えてならなかった。
私は来る日も来る日も、頭からつま先へ、つま先から頭へと、部分ごとに意識を動かし、そこに起こっている感覚を観察し続けていた。感覚は、いつも変化していた。様々な感覚が現れては消えていった。足の痛みはずっと消えなかったが、それ以外の感覚は現れては消えていった。
ゴエンカ氏は、ありとあらゆるものが変化しているということを、感覚を観察することで、自らの体験を通して、理解しなさいと繰り返し指導していた。
無常ということ。変化しているということを理解することが、この瞑想の核心部分のようだった。パーリ語で「アニッチャ」と呼ばれる真理、あらゆることが変化していること。その普遍的な真理を持って、感覚を観察しなさいと指導される。平静に、客観的に、あらゆる感覚を観察しなさいと指導される。
確かに、観察してみると、感覚は変化していた。かゆみが現れては消えていった。ちくちくする感覚、アリが這っているような感覚が現れては消えていった。しびれるような感覚、細かい泡のような感覚が現れては消えていった。意識を体の様々な部分に向けてみると、面白いほど様々な感覚が現れ、そして消えていった。
ただ足の痛みだけは、ずっとそこにあり、ときおり堪え難いほど強くあり、とうていこれが変化しているなどとは思えなかった。どう考えても足の痛みはアニッチャではないと思われた。足を崩せば痛みはなくなるが、そうしないかぎり痛みは変化せず、その痛みを客観的に観察することなど、できるわけがなかった。どうして他の人はみな身じろぎせずに座っていられるのか不思議でならなかった。私だけがこのような堪え難い痛みに耐えているのだろうか。
深く集中して座れたり、ただ退屈なだけだったり、痛みに耐えに耐えていたり、ほとんどずっと眠気と戦っていたりと、瞑想しているときの状態は様々だったが、瞑想時間が終わり外に出てみると、天気も必ず変化していた。そして、天気が変化している様は美しかった。朝の光に照らされ、霜が降りた葉っぱも美しかったが、曇り空の鈍い光の中で見る葉っぱも美しかった。私をとりまくものすべては、刻々と変化していた。そしてその変化している様は、なにか特別な瞬間が美しいのではなく、どの瞬間も美しかった。ただそのような変化に気づけていなかっただけなのだ。