はじめて自転車旅をしたのは、十三歳のときだった。
母の友人が自転車で富士山のまわりを旅したと聞いて、私もやってみようと思い立った。そして兄の自転車と父のテントや寝袋を借り、二人の友人を誘い出発し、五日間かけて浜松から富士山の二合目まで行って帰って来た。橋の下にテントを張って寝たこと。富士山の二合目までの長い上り坂のこと。やっとたどり着いた二合目には残雪があり、霧に包まれていたこと。そんな断片的な記憶があるばかりで、そのほとんどは、あいまいな、焦点の合っていないものばかりだ。あの体験が私に何を感じさせたのか、今となってはもう、記憶から消えてしまっている。
けれどもその出来事は、その時の私に「なにか」を感じさせたはずだ。ことばにならない、でも十分な予感を含む、疼きにも似た「なにか」。十三歳という危うい年齢の者にとって、あのような行為から、なにも感じない訳がない。
おそらくその「なにか」に促されるようにして、私は自転車による旅を繰り返すようになったのだと思う。十四歳の春に、今度は一人で、一週間かけて伊豆半島と富士山を八の字を描くように旅をした。初めての一人旅だった。一人旅は心細かったが心地よさも感じていた。そして以後、私は好んで一人旅をするようになった。十五歳の夏には、北海道を一人で二週間かけて旅した。道南、道東を千二百キロほど走り、はじめて自分と同じように自転車で旅している人と出会った。そして十六歳の夏にはカナダを、一人で四十日間かけて縦断した。北極圏の町イヌビックからロッキー山脈の麓の町バンフまで三千五百キロほど走った。はじめての海外の自転車旅だった。カナダの雄大な光景の中、私は必死になりながら自転車を走らせていた。
どの旅も、そのとき思いつく限りの、精一杯背伸びをした旅だった。旅立ちに際して、私には迷いもなければ怖れもなかった。勇気など必要なかった。ただ私の前に世界が広がっていくのが楽しくて仕方なく、私は思いつくまま次々と実行し、自分にブレーキをかけることもなかった。学校を抜け出した先には、世界が無限に広がっているように思われた。そして私の思いつきを、父も母も止めはしなかった。今はそのことに対し驚きすら感じるが、そのときはそれは当たり前のことだと思っていた。そうして私の内に、徐々に、ずっと水が湧いてくる泉のような、いつでも燃えている火種のような、確かなものが育っていったのだと思う。
そしてそのように繰り返した旅を滑走路にして、私は一つの大きな旅を思いついた。十三歳のあの初めての旅で感じたであろう「なにか」、それがいつのまにか大きく育ち、私を圧倒していた。
喜望峰からの旅を思いついた日のことはよく憶えている。
それは大学に入学して二ヶ月あまり経ったある夜だった。私は世界地図を見ていた。一人暮らしをはじめたばかりのアパートで、テーブル代わりに使っていた衣装ケースの上に電気スタンドを置き、地図帳を広げ、ページをめくりながら世界地図に見入っていた。そして、見知らぬ国を自転車で旅することを思い描いていた。ずっと私は、大学に入ったら自転車で長い旅をしようと思っていた。地図を見ていると、世界はあまりに広く、私の知っている世界はあまりに狭いと感じられた。私には行きたい場所がありすぎた。地図帳をめくると世界は無限に広がり、私はわくわくしながら途方に暮れていた。
夜中の一二時を過ぎていたと思う。住宅街にあるアパートはひっそりと静まり返っていた。地図帳に見入りながら、ふと私は、ここからいちばん遠い場所はどこだろうと思ったのだ。地図帳の裏表紙を開き、日本を中心とした世界地図を見て、南米の南端か、アフリカの南端だなと思った。そして、地理的にいちばん遠い場所は南アメリカの南端になるのだろうが、なんとなくアフリカの方が遠いなと思った。そのときの私にとって「アフリカ」という響きは、「南米」より遠く思えたのだ。アフリカの南端にはケープタウンという街と、喜望峰という岬が記されていた。私は、ここがいちばん遠い場所か、と思った。そして、こんな場所から日本を目指して自転車で旅したら面白そうだな、と思った。そのとき何かがもう宿っていたのだと思う。
距離はどれぐらいあるのだろうかと指で大まかに計ってみると四、五万キロあった。どれぐらいの期間があれば走れるだろうか。一日百キロ走るとして、四、五百日だなと思い、休憩日を入れ二年間あれば走れると思った。どの国をどう走れば面白いだろうか。アフリカ南部のページを開き、喜望峰から伸びている道をたどり、アフリカ北部、ヨーロッパ、中東、南アジア、東アジアのページを次々に開き線をたどっていった。しばらく私は地図帳に没頭して見入っていた。それからふと我に返って地図帳から顔を上げ、まずいなと思った。私はあまりにもわくわくしていた。それは狂おしいほど魅力的な計画に思えた。そして私はその計画を、ほんとうにやろうとしてしまっている。
「いちばん遠い場所」という言葉がスイッチになっていたようだ。そしてそれはもう押されていた。 その夜、私はノートに「喜望峰から日本まで自転車で旅をする」と書き、計画から逃れられないことを自覚させた。それが可能かどうかは問題ではなかった。私には選択肢というものがなかった。気づいたときにはもう始まっていた。私は喜望峰へ行き、そこから自転車で帰ってくるほかなかった。体の奥から発光するような力が湧いていたことをよく憶えている。
準備期間を二年間とし、私は着々と準備を進めていった。私はアルバイトに精を出すようになった。今まで住んでいた六万五千円のアパートを出て、二万五千円の安いアパートに引っ越した。風呂のないそのアパートは、階段を上がるときに建物全体がきしんだが、日当りもよく静かで、私はひどく気に入った。
大学にはまったくなじめなかった。大学に居場所がなかったからか、そのころよく一人で山登りに行った。はじめのうちはアルプスの尾根歩きをしていたが、やがてただ登山道を歩くだけでは物足りなくなり、ロープを使うようなバリエーションルートや、沢登り、冬山にも一人で行くようになっていった。特に冬山に私は魅了された。マイナス二十度はあるかという吹雪の中を歩き、夜は深い山の中で一人テントを張った。しばらくしたら私は喜望峰へ行き、そこから自転車で遥かな道のりを旅する。そう思うと深い場所から力が湧いてきて、どんなに寒くても問題ではなかった。私は何か途方もなく大きなエネルギーと接続してしまっているかのようだった。だからだろうか、ときおりそれは理由のないさみしさにも変わり、よく好きな人を想いながら山を登っていた。旅を想う気持ちは、なぜか好きな人を想うことにとてもよく似ていた。そのころ私は何度か好きな人ができてはうまく行かないということを繰り返していた。あの頃の私にとって旅立つことは揺るぎないことだったので、本当はうまく行くことなど望んではいなかったのかもしれない。どうして私はあんなにも揺るぎなく旅立つことを決められていたのだろうか。それはほとんど絶対的なものだった。そしてとても自然なことのようにも思えていた。春になったら花が咲く、低気圧が来たら雨が降る。それぐらい自然なことだったので、旅を思いついてからは一度も出発する気持ちが揺るがなかった。準備期間が二年間もあったのだから、一度ぐらい辞めようかと思ってもいいように思うが、いくら思い返しても、そういう気持ちになった記憶はない。
両親には計画を思いついてからすぐに話した。今度の計画は今までとは比較にならないぐらい大きなものだったので、驚きはしたが、やはり反対はしなかった。反対されても旅立ったとは思うが、きっと旅自体がずいぶん違うものになっていただろう。
そのころ私はとても窮屈な場所にいると思っていた。この社会がなにか顔のない怪物のような不気味なものに感じられていた。そして私はその怪物の手の中にいた。怪物は大きな手で私を握りつぶそうとしていた。私は手足をつっぱって必死に抵抗していた。しかし、どう考えても私は無力だった。このままでは私の手足はマッチ棒のようにボキボキと折られ、怪物の手の中で握り殺されてしまう。骨と肉の固まりにされてしまう。そんな幻想を私は抱いていた。だから怪物に握り殺される前に、私はできるだけ遠くに逃げなければならなかった。そのころ私はすべてに不満だった。大学も、人間関係も、この社会も、私自身も、そのすべてに不満だった。圧倒的な不満の中で、度し難い力が、私の内で、マグマのように沸騰していた。
そして私には、旅立ちへの虹のような憧れがあった。ここを出たら、私の前に広い世界が現われる。そう想うとほんとうにわくわくしてきた。喜望峰はどんなところなのだろう。アフリカの大地を走るとどんな光景に出会えるのだろう。そんなことを思うと、どんな困難が待ち受けていようとも問題ではなかった。私はここを抜けて、どこまでも広がっていく世界に出会いたかった。私は広い世界に自分を解き放ちたかった。今いる場所をすべて捨て去って「いちばん遠い場所」へ逃げる、もうだれも追いかけられない場所、私をだれ一人知らない場所に行ってしまうという夢想は私を強く捉えた。そしてそれを本当に実行しようとしていることは、私を無限に強くさせた。今ならまだ間に合う。今ならまだ怪物の指の間をすりぬけて旅立てる。そして今しか旅立てない。ずっとそう思っていた。
私はアルバイトを続け、お金を貯めた。そして出発の半年前ぐらいに新しい自転車を買った。テントやバッグなど旅に必要なものを少しずつ買いそろえていった。大学に休学届けを出した。新しいパスポートを申請し、ケープタウン行きの航空券を買った。日付が印刷されているその航空券はよかった。この日にこの飛行機に乗りさえすればいいのだと思うと旅が急に現実味を帯びてきた。私は荷物を実家に送り、アパートを引き払った。そして、冬が終わろうとしているある日、私は成田空港へ向かった。
その日は小雨が降っていた。空港には両親と弟、そして数人の友人が見送りに来てくれた。チェックインを済ませ、手持ちの日本円をすべてドルに両替した。日本円の小銭がいくらか余ったので弟にあげた。時間になるまで友人達と話していたが、これから旅立つという緊張は感じていなかった。友人の声も、空港のアナウンスも、壁越しからくぐもって聞こえてくるようだった。やがて時間になったので、霧に包まれているような感覚のまま皆と握手をして別れ、手荷物検査の列に並ぶ。私の番が来て、手荷物を検査機に通し、ゲートをくぐる。
霧が晴れたのは、ゲートをくぐり振り返ったときだった。このときの、夢から醒めたときのような、はっと我に返る感覚は今でもよく憶えている。ビルから飛び降りる途中で我に返ったらこんな感覚なのかもしれない。父と母が遠くで身を乗り出して手を振っているのが見えた。急に頭がはっきりしてきて、もう取り返しがつかないと思った。何か大きな間違いを冒しているのではないかとも思った。深い霧が一気に晴れてから立ち現れた光景は、本当に一人になった私の姿だった。私は遠くに見える両親に手を振り返した。手荷物を受け取ってからもう一度手を振り、そして出国審査の列に並んだ。まだ一つもスタンプを押されていないパスポートを持つ手が小刻みに震えていた。