カルカッタからシンガポールに飛んだ。
シンガポールを出発し、マレーシア、タイ、カンボジア、ベトナムを走り抜け、中国を横切って、山東半島の先端から船で韓国へ渡った。シンガポールからソウルまで、八千五百キロの距離を、四ヶ月間かけて一気に走った。それは今まででは考えられないようなスピードだった。私は今までひと月に平均千キロほど走っていた。しかしシンガポールからソウルまでは、ひと月に二千キロ以上走っていた。今までの倍以上のスピードで走っていたことになる。
ずっと、一人の女性のことを想いながら走っていた。
彼女は韓国人だった。春休みを利用し、友人と二人でインドに来ていた、彼女は芸術を専攻している大学院生だった。宿のテラスで食事をしているときに、共通の韓国人の友人を介して出会った。彼女は赤いTシャツを着ていた。誰とでも屈託なく話し、知性的で大きな目をし、ショートカットの髪型に笑顔がよく似合っていた。小柄でよく笑う彼女に、私はすぐに惹かれた。自転車で旅していることを話したら、彼女は目を丸くして私の話に耳を傾けてくれた。
五年前に旅を思いついたときと同じように、私には選択肢というものがなかった。世界地図を眺め、いちばん遠い場所から日本まで走ろうと思いついたときと同じように、抵抗する術もなく彼女に惹かれていた。
彼女が韓国へ帰国する日の午後、街角で一緒にお茶をしているときに、数カ月後に自転車で韓国に行くよと言ったら彼女はとても喜んでくれた。それからほどなくして、彼女はタクシーに乗りサダルストリートを離れていった。タクシーの後部座席から手を振っている姿を見ながら、私は何一つ悲しくはなかった。やっと出会えた。やっと始まった。そんな嬉しさでいっぱいだった。
彼女を見送ったあと宿へ戻り、テラスに座りカルカッタの夕暮れを眺めた。いつしか日は沈み、上弦の月が冴え冴えと浮かんでいた。今頃はもう飛行機の中だろうなと思いながら上弦の月を眺めていた。
そして次の日、旅行代理店を回り、シンガポール行きの安いチケットを手に入れ、私はカルカッタを離れたのだった。もう迷いはなかった。シンガポールから一気に東南アジアを北上し、中国を抜け、韓国へ行く。四、五カ月もあればたどり着くだろう。それから日本へ帰国しようと思った。旅はもうカルカッタで終わったと思った。そして全く新しいことが始まっていると思っていた。
シンガポールからソウルまでずっと、私の目は、彼女を想うというフィルター越しにしか外の世界を見れなくなっていた。今までのようにただ夕日や月に見とれるということはなくなり、何を見てもその光景の向こうに彼女を見ていた。
湿気を含んだまとわりつくような空気にもすぐに慣れた。一日中自転車を漕ぎ、目いっぱい前進することが楽しくて仕方がない。東南アジアの暑い風土がそうさせるのか、人々は穏やかに話し、のんびりしている。私だけが汗を顎からぽとぽと滴らせ、必死に走っている。そして私が通りがかると人々はみな、私に挨拶をしてくれた。
子供たちが大声で「ハロー!」と手を振ってくれた。自転車に乗った老人を追い越すときに、しわだらけの素敵な笑顔をこちらに向けてくれた。道端でおしゃべりしている赤ちゃんを抱いたおばさんたちが笑顔で手を振ってくれた。学校帰りの中学生ぐらいの女の子の一団が私を見つけ、一斉に「ハロー!」と手を振ってくれた。ときどき自転車に乗った少年が私に競走を挑んできた。私は受けて立ち、思いっきり漕いで引き離してから、少し大人気なかったかなと思ったりした。
ピックアップトラックの荷台から、道端の木陰から、高床式の家の中から、橋のたもとで、川で洗濯をしながら、ハンモックに揺られ、自転車で追い越すときに、バイクに追い越されるときに、道端のかき氷屋さんで、ぶっ掛け飯の屋台で、昼寝の目覚めに、みな私に手を振ってくれた。そしてその度ごとに私は心を奪われ、人々の屈託のない姿に出会うたびに、その笑顔の向こうに彼女を見ていた。
私は観光らしいことをほとんどせずに、淡々と走っていた。マレー半島を北上し、タイ、カンボジア、ベトナムを走り抜けた。しかし内側では私は、しばしば自分の感情のコントロールを失っていた。過剰な感情のまま、追い風に乗り二百キロ以上走った日があった。あまりにも不安定な感情を鎮めるために、ハサミを持って鏡の前に立ち、後ろで縛っている長い髪を、ぎりぎり縛れるぐらい残して切り落とした夜があった。暗くなっても自転車を漕ぐ足が止まらず、危険な夜間の走行をしながらこのまま韓国にたどり着くまで漕いでいたいという想いに取り憑かれた日があった。私は落ちていくように自転車を走らせていた。
ベトナムを縦断し、中国をひたすら走り続ける。
ずっと、一人の女性のことを想いながら走るということ。それは外の世界から遮断された場所にいるようなものだった。そのような場所で私は、ただ会いたいという想いだけで走っていた。生まれようとする胎児が産道を通っていくように、私にできることはただ走ることだけだった。そして、連日休まず走り続けているうちに、自分がどこを走っているのか、ここが何という名の町なのか、分からなくなっていた。そのようなことに関心を払わなくなっていた。ただソウルへの最短距離を走っているだけで、いまいる町の名に関心を払う余裕がなくなっていた。
ある日、ある小さな町に着いた。場末の狭い宿に荷物を運び入れ、外に出ていつものように路上の屋台の中から一つ選ぶ。椅子に腰掛けると、洗面器のような容器に入れられた辛い麺が出てくる。私と同じような顔つきをした中国人たちと肩を寄せ合いかき込む。そしてふと顔を上げ、ここはどこなんだと辺りを見回した。中国の、どこかの街角の、屋台と人がひしめく路上。雑居ビルが建ち並んでいる。でも、自分がどこにいるのか全く分からない。そして急に、何もかもが分からなくなった。ここはどこだ? この町の名はなんだ? 私はどこへ向かっている? なぜ私はここにいる? いったい私は何をしている? 疑問が一気に押し寄せ、そして次に、
「一人でいる」
「会いたい」
と思った。屋台がひしめく路上で、みなと同じように背を丸め辛い麺をかき込みながら、私だけがよそ者だった。飛び交う会話の喧噪の中で、私だけがその言葉を理解していなかった。急に空間が歪んだように感じ、迷子になったような不安を感じた。どうしてこのように走り続けているのか、なぜこんなことになっているのか、何もかもが分からなくなり、「一人でいる」「会いたい」と、それだけをすがるように思っていた。
シンガポールから八千五百キロ走り、山東半島の先端の、ウェイハイという町に着いた。夕方に宿を出て、夕食をとる。夕食の後、港の公園のベンチに座り、夜の海を眺める。人々がそぞろ歩きをしており、船のサーチライトが回っている。夜空には上弦の月がある。私は明日ここからフェリーに乗って韓国へ渡る予定だった。そして明日彼女と再会する予定だった。
四ヶ月間、ただただその日が来ることを待ちながら自転車を走らせていたのに、私は夜の海と行き交う人々を眺めながら、表情が凍結していた。港に面した公園のベンチに腰掛け、人々が散歩している様を眺め、上弦の月を眺め、夜の海を見つめながら、表情を失っていた。明日船に乗り、この暗い海の向こうへ行き、彼女に会い、そしていったいどうなるのだろう。しかし、先のことを考えようとすると頭が痛くなった。私は三日間ぐらい何も考えないで眠りたかった。私は港の公園のベンチに座り、じっと夜の海を見ながら長い間固まっていて、身動きがとれなかった。
次の日ソウルで再会した。それから私たちは一週間ほど毎日のように会い、いろいろな所を歩きながら、ずっと話していた。話しても話しても話すことはあった。お互い流暢という訳ではない英語で、何をあんなにたくさん話していたのだろう。そしてある日、満月に背中を押されるかのように公園で気持ちを伝えた。別れてから一人で歩いているとき、歩道の模様が細部までよく見えた。歩きながら歩道の幾何学模様ばかり目で追っていると、それが何かとても生々しいものに感じられた。
それからの十日間の記憶がほとんどない。ある日、昼すぎに起きて、ベッドの中で、絞り出すようにして涙が出てきたことは憶えている。のどの奥に指を入れ無理矢理吐こうとするように流した涙だったが、わずかに流れただけですぐに止まった。
十日後に私はソウルを離れた。自転車に跨がり昼過ぎに宿を出発したが、その日は数キロ走っただけで自転車を停め、道端のベンチに座ってしまった。そして長い間逡巡した挙げ句、近くの別の宿に泊まる。翌日は十キロあまり走り、川を渡ってソウルの南側まで走ったが、また自転車を停めてしまい、同じように長い間逡巡し、諦めて近くの宿に泊まる。そして次の日百五十キロ走りソウルを離れた。
五日間走ったら釜山に着いていた。下関行きのチケットを買い、船に乗り込む。船は夕方出航した。次の日の朝船のデッキに出ると、関門海峡とそこに架かる大橋が見えた。もう太陽は昇っており、海面が日光を反射していた。あそこに見える陸地はもう日本なのだということが不思議に思えた。
*
喜望峰から日本まで、自転車で旅をする。
それが私がどうしてもやりたかったことだ。そして私はそれを達成した。三年五ヶ月かけて、四万五千キロ走り、日本まで帰ってきた。けれども、私は達成感など何も感じていなかった。あれだけ強く願ったことが実現したのに、私はただただ悲しみの中にいて、深く混乱していた。そして壁に投げつけられた卵のように、私はばらばらになってしまっていると感じていた。
旅の終わりは死の気配に満ちていた。下関から大阪まで走り、大阪の祖父母の家に行き、祖父のお見舞いをした。祖父は二年前に倒れ、それからずっと寝たきりで意識のない状態だった。そして私がお見舞いをした四時間後に祖父は亡くなった。八十九歳だった。まるで私が帰ってくるのを待ってくれていたかのような最後だった。家族と三年五ヶ月ぶりに再会したのは、だから通夜の会場になった。父も母も兄も弟も、親戚の人たちもみな、私の登場に驚き、そして喜んでくれた。通夜、葬式が終わり、祖母の家で数日間過ごしてから実家のある浜松まで走り、私は混乱したまま旅を終えた。そしてそれからずっと私は眠っていた。必要なことをする以外はほとんど一日中眠っていた。どれだけ眠ってもまだ眠れた。脳がもう何も感じたくないとシャッターを下ろすかのように、何日間も、何週間も、眠っていた。
そしてそれから私は少しずつ、旅を振り返るようになった。混乱していたから、何が起こったのか振り返るのは気が重いことだった。気が重かったが、混乱したままでいることはできなかったから、私は問われるままに話し、そしてあるときから旅の出来事を書き始めた。その作業に、私は本当に長い時間をかけてしまった。何度も書き直しながら、何年もかけてゆっくりと、私はあの旅が何だったのかを理解しようとした。それもまた、喜望峰から日本へと自転車を走らせることと同じように、どうしてもやらなければならないことだった。
そうやって長い時間をかけて書いたものが、この文章だ。私はこの文章を書きながら、この旅をした日々が、はじまりの日々だったということをゆっくりと理解していった。
はじまる、ということは、今まで自分を覆っていたものが壊れてしまう、ということでもある。私の身に宿ったある想い、喜望峰から日本まで自転車で帰る、という計画に、私は素直に、そして強く従った。その自然の促しは、最後に私をばらばらにして終わった。そのことを私は長い間受け入れられなかった。しかしそうやって強引に私を覆っていたものを壊さなければ、私は「私」に閉じ込められたままだっただろう。私を閉じ込め、そして握り殺そうとしていた怪物は、もしかしたら私自身だったのかもしれない。
釜山から下関へ渡り、そこから瀬戸内海沿いの道を走っていたときのこと。
弱い雨が降っていた。緩い上り坂を私は漕いでいた。私はなにも考えたくなかった。なにも感じたくなかった。ただ足を動かして、旅を終わらせようとしていた。久しぶりに見る日本は、道が狭く、車が多く、広告の看板ばかりが目につき、この国はやはり私には合わないと思った。そしてふと、また旅に出ることになるのかもしれないと思った。旅は終わらないのかもしれないと思った。私はその考えをあわてて打ち消した。ペダルを踏み込み、立ち漕ぎをして一気に坂を登りながら、ふと頭をよぎった思いを振り払おうとした。それはそのときの私にとってあまりにも過酷で堪え難いことに思えた。私はもう心を閉じて、ただ足だけ動かして、旅を終わらせたかった。
そうして浜松まで漕いで、喜望峰からはじまった旅を終わらせた。しかしほんとうは何も終わってなどいなかったということが今なら分かる。あの力はどんなときでも私の内にあった。喜望峰から日本へと私を走らせ続けた力。それは日本にたどり着いたらなくなるようなものではなかった。それはまるで火種のように、ずっと私の内で燃えていて、いつでも、何度でも、「私」を解き放とうとしていた。